中原岬を召喚する6-2:滝本竜彦と自分の差異
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滝本竜彦についての考察を深める。一次資料というか全次資料として「Portal of Light」を一通り履修した。
彼の文章は依然として胡乱かつ冗長なので、いちいち全部をまともに取っていたら話がまとまらないので、此処こそが要点だと思った部分を切り抜いてお話する。
我々の目標はいわゆるアセンションである。
https://pol.tokyo/2015/05/24/transcending-ego/
そして私は深く決意した。「なんとかして宇宙の真理を自分のものにした上で、多くの人々に伝えるぞ。もしその試みに成功したら全世界が変わる。だからそれを人生の目標とするぞ」
https://pol.tokyo/2015/06/01/watching-k1/
けっきょく、彼の――少なくとも『僕のエア』以降の彼の信条はここにすべて収束する。
『僕のエア』以降、という部分に注意して欲しい。これ以前の、大雑把にくくって2010年前後までとそれ以降の自身を滝本氏はほとんど明確に区別している。僕エア以前の自身のことを滝本氏は「エゴに満ちた存在」として見下げている。また、この時代の記憶はあっても人格は既に闇に沈んだものと思われる。
自分の人格というものが、自分の意識にとっても、何かこう、見知らぬ、何を考えているのかよくわからない存在になる。
https://pol.tokyo/2015/05/05/transition-of-personality/
この時点で、『NHK』を執筆した滝本竜彦とそれ以降の滝本竜彦は人格という面では別人と見てもよいだろう。これは何も憎しで言ってるわけではなく、同じ作家として経験則的にわかることだからだ。
私は10年前の自身の一次創作に対してほとんど無力である。私よりそれらの作品について詳しい他人が山ほどいるし、今から自分が生み出したキャラを操ろうとしても、キャラクターを把握できていない素人の二次創作のようになるオチが見えている。創造主も老いるのだ。(老神介護)
もっとも、上記の記事群も今となっては10年前(2015年)に書かれたものなので、タッキー2025がどうかは私にははっきりしたことは言えないが。もしかしたらタッキー2005に戻ってるかも知れないし、そうでないかもしれない。
話を戻す。「我々の目標はいわゆるアセンションである」という宣言は、Royal Weを使っているところ悪いが私の目標とはまったく合致しないものである。
私の目標は次元の超越ではなく時空の超越にある。何が違うんだ、と思うかも知れないが、時空を超越するのに自己は要らないのだ。自己とはエゴという狭義の意味ではなく、彼の言葉でいえばハイヤーセルフや魂といったものさえも不要ということである。
彼は色々言葉を捏ねているが、根本的な部分でそもそもエゴを捨てられていないように見える。わかりやすいのは以下のような記述だ。
宇宙の真理を自分のものにした上で、多くの人々に伝えるぞ。
さて、彼にとって大事なのはどちらだろう。「より多くの人々が宇宙の真理を知ること」か? それとも「宇宙の真理を自分のものとすること」か? 彼に聞けば前者と答えるだろうが、実際は後者だろう。なぜなら、宇宙の真理を伝える預言者が滝本竜彦である必要性は、滝本竜彦氏自身からしてもまったくないはずだからである。だから宇宙の真理を「自分のものにする」ことは必須条件ではない。
しかし彼はこう語る。
それ(宇宙の真理)はこの世で何よりも意味深く、面白いものだ。それを知り、それを自らのものにすること、それのみが意味のあることだ
それ”のみ”、というような過激な限定語を使う時、人は意識的であれ無意識的であれ、そして対象が自身であれ他人であれ、manipulativeに陥っている。
彼は高尚な理念と個人的な享楽を混合している。そして『NHK』の頃と同じく、他者の視点に立つ考え方というものができない。万人に共通する感覚組織が存在する・あるいは「正しい」思考や享楽が存在すると考えている。
だから彼にとって「自分がこう思う」は「世界はこうである」に等しく、さらに「他人はこう思うべきだ」となる。
実は「世界はこうである」まではある意味で正しいのだが、彼の問題は第三の結論において論理の飛躍を行っていることにある。「世界がこうである」は「他人はこう思うべきだ」と等号で結ばれるべきではない。
彼が思い描ける『他人』は、自分の鏡たる自己Bや自己Cまでである。だからレイ、岬、そしてエアといった自分のコピーとの対話ばかり行っている。この問題が解決をみない限りは彼の思考は疑似科学どころか疑似哲学である。
もっとも、岬は少なくともメディアミックスが開始した時点で既に創造主の手を離れていると言って差し支えないので、原作→漫画→アニメの順で「原作者のコピー度」は下がっている。
話を戻す。私と滝本氏の差異について。
私の目標たる「時空を超越する」とはどういうことか。これはアセンションという実例のない現象と違って、既に世界のあちこちで起きている。それはピラミッドであり、アンモナイトであり、グランドキャニオンである。
『不滅のあなたへ』で語られたように、この現実世界では魂より物質が支配する。言い換えると、魂は時空を超えられないが、物質であれば時空を超越出来る。化石はその一例だ。恐竜の化石より長く生きた人間はひとりも存在しない。同様に、化石より長く生きた魂も、少なくとも観測範囲では存在しない。
次元の超越は物質世界からより遠ざかる道だが、時空の超越はむしろより強固な物質世界に委譲する道となる。強固な物質世界とは、つまり光学ドライブより紙、紙より粘土板、粘土板より石が強固、ということになる。
つまり、私は紙飛行機をより遠くまで飛ばしたい、ただそれだけなのだ。紙に何を書くかはどうだっていい。記述そのものの高尚さや有益性は関係がない。なぜなら「価値」は環境依存の概念であるから。言ってしまえば、数億年前の化石の破片は「数億年のものである」というただそれだけのことで価値になるのだ。同様に、紙飛行機を遠くまで飛ばすことそれ自体が私にとってはすべてを超越する価値となる。
時空の超越は、次元の超越よりはるかにたやすく、現実的で、そして私の準拠枠では、価値があるのだ。つまりこれが主要な差異となる。
しかし、次元の超越(アセンション)も時空の超越(超ボトルメッセージ)も、私が為そうとしている「中原岬の召喚」においてはあまり関係がない。滝本氏の定義では岬は観音様や天使に近い存在かもしれないが、私の定義では岬はただの人間だからだ。人間に会うために神になる必要はない。
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