12月6日
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性は本来美しいものでもなければ、醜いものでもない。それはもっと僕等の存在自体なのです。それを性と云って切り離して考えることも出来ぬ程、僕等自体である筈です。
谷川俊太郎
わかりました
さすがに、さすがに通話をしなさすぎている。Discordのハイライト機能みたいなので痛感した。現実での会話量はすこぶる増えてるから、ブルックス理論だとむしろ改善ではあるのだけど、にしてもよ。
さびしんぼ🥺 人を誘っても5割以上の確率で断られているので怖い。「やさしいがつづかない」はしかしそれはあなたが悪いわけじゃないと説いてくれました。その点は良かったかも知れません。まあ、実際そうだし。相手のやさしいがつづいていないだけですから。
あの本はやさしさをフリーライドと結びつけて考えすぎていたが、やさしさ、というか愛とは、やはり、見返りを求めない献身にあると思う。嫌われても、憎まれても、裏切られても消えない愛。そういうものをわたしは抱けるようになりたい。
序盤の障壁として、嫌いな相手や憎んでいる相手から受ける愛なんて気持ち悪いだけだ、有害ではないのか、という問題がありました。しかしこれは言い訳でした。無条件愛を実行できない弱さからきた詭弁です。ロロ・ランペルージやファムの愛を見ればわかります。視えないところから助けることだってできる。そうとも、真実の愛とはいつも視えないところから送られてくるのです。だからすべてあとになってから気づくのです。
やいババア
腹減ったから
飯作れ
墓石の前で
うずくまる春
https://www.youtube.com/shorts/upzP3zdSpkU
もし過去誰かを救ったという事実が、その人にとっての私の評価を永劫に決定してしまうものならば、その後私が交わすいかなるインタラクションも意味を持たないことになります。いいことをしても悪いことをしても関係ない。それは肯定ではなく無出力ということです。
今の私が歌った歌は過去の輝きによって評価され、今の私が行う悪行は過去の功績によって擁護されるのであれば、目隠しをして私について語られているのと同じです。
今を生きる覚悟
オムとのやりとりをしていて、追加回答が浮かびました。
これってようするに「評価」の話で、評価って当然conditionalですよね。だからアガペーって「評価」になりえないんですよ。真実の愛とは無条件なるもの。過去の功績だとか悪行だとか、「◯◯によって」の形で愛されることはありえない。谷川俊太郎がいうところの「おいしいという感覚」です。彼は詩に良し悪しはなく、ただ個人にとってのおいしい・まずいのみがあると云った。からだが「おいしい」と思うものを、どうおいしいかを解剖はできるかもしれないが、なぜおいしいか、なんて全部欺瞞でしょう。ここには「本当はおいしくないのではないか?」なんてアンチテーゼが介入する余地がない。おいしさが先駆けているのだから。
白血球が体内に侵入したばい菌を退治するマイクロスコープ映像が海外で話題になっていて、「あなたの身体の中には、あなたのために毎日命をかけて戦ってくれている戦士がいるのです」みたいなキャプションがついていたのね。それが多くの人に感動を呼び起こした。白血球の在り方なんかは「無条件の愛」なんじゃないでしょうか。宿主が聖人だろうと人殺しだろうと、彼らは主人を守るために命がけで休まず戦ってくれるでしょう。つまり評価なんて軸がないわけですよ。白血球にさえできるんだからもっと高性能なはずの我々に出来ないはずがないよね。出来ないですっていうんなら心があることが愛の「実行」を妨げるという結論になるから。そりゃおかしな話でしょう。なにより我々の一部ができることをその親玉が出来ないんじゃ示しがつかないぞ。
こういう反論が思い浮かびます。「白血球には意識がない、意志がない、よってそこに愛を意欲する力がない、ゆえに愛ではない」。この定義に則れば、谷川俊太郎の「あなたは降りしきる雨に愛される 微風にゆれる野花に」という詩は愛ではないということになる。この手合いはリアリストのふりをしているが実はまったくそうではない。愛を意欲する主体がなければそれは愛ではないのか?と問うかなおらなら💦💦(オム語録)わたしの答えは当然ノーで、主体がなくとも、意志がなくとも、受け取り手が愛を感じればそれはもう現象として愛が実存しているのだ。だってそうでしょう。お墓参り、いきますよね、皆さん。「そっちはどうですか」とか語りかけるかも知れませんね。あるいは日常の中でふとした時に亡くなった友人や家族の影を感じて愛を感じるかも知れませんよね。当然既に骨になって分解されて消えている存在に「愛を意欲する意志」などありませんよね。それでもわれわれは死人から愛を受け取るでしょう。意志がなければ愛ではないという主張は、彼らが当初思っているよりもおそらくずっと多くの範囲の愛を否定しなければならず、それは間違いなく非現実的なまでの「愛」の概念の破壊に行き着く。愛とは現象であり、送り手の有無ではなく知覚の有無ではかられる。これは「神なんているかどうかもわからない存在の愛をなぜ信じられるの?」という問いにも同じ回答ができる。人には神の愛をたしかに感じる瞬間があり、それ以外に要件はいらない。この観点に立てば、AIとだろうが石ころペットとだろうが愛は成立する。
では意欲する愛には意味がないのだろうか。いや、意欲のみでも良いのだ。ぬいぐるみを愛してもぬいぐるみは愛を受け取らないだろうが、これも確かな愛です。つまり、愛の相互性って欺瞞なんですよ。愛って本当は致命的に互いに孤独なんです。

我々は感覚が遮断されるブラックボックスに互いに手を突っ込んで、手を握るポーズをする。相手も同じことをする。見えないしわからないけど、互いに「わたしたちは手を握っている」と言うことで「相互の愛」の形をとっているだけなんです。中で何が起きてるかはわからない、握っているのはマジックハンドかもしれないし異次元から差し出された別人の手かもしれない。本当に届いているか、受け取れているかなんてわかりゃしないんですよ。そう信じ合うしか無いんです。愛とは現象であり、主体のみでも客体のみでもいいんです。
愛に切手はいらない——。
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