無欲はすべてを義務にする
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無欲はすべてを義務にする。「したい」がないのだから、やることはすべて「しなければ」という抑圧になる。此れとどう向き合うか。
世の思想枠組みがどうしているかいまいちわからないのだが、わたしが思いついた折衷的考えを書く。
人間には罪悪感という感情がある。自分が不当に得をしていると感じると、人は罪悪を感じるようにできている。
わたしは世俗に逆らい知足することにある種の罪悪を感じる。外界であがいている人間とかけ離れた心境に在るからだ。
「しなければ」の存在はむしろ救いではなかろうか。罪滅ぼしの行なのだ。知足の後ろめたさを消すための。
仏教が滅するべき対象とするのは、生命維持に必要な自然な欲求(食欲など)ではなく、「渇愛(Taṇhā)」と呼ばれるものです。これは「喉の渇き」に例えられるような、満たされることのない渇望や執着を指します。
「もっと欲しい」「こうでなければならない」「失いたくない」という、自己中心的な渇望が苦しみ(四苦八苦)を生むと考えます。
この渇愛から解放されると、世界をあるがままに認識する「智慧(Prajñā)」と、他者の苦しみに共感する「慈悲(Karuṇā)」が自然に湧き上がってくるとされます。
つまり、「自己満足のためにしたい」という欲望が消えた場所に、「他者のために(自然と)したくなる」という慈悲の心が生まれるのです。これは義務ではなく、むしろ内側から溢れ出る衝動や喜びと捉えられます。菩薩の利他行は、義務ではなく慈悲の発露なのです。
こういうのはあまり納得いっていない。欲望を分類し再定義しようとする試みはすべてリフレーミングの域を出ない。形なき欲望という概念に対して「それは本当の(正しい)欲求ではないのだ」を無限後退的に繰り返すのは真のスコットランド人論法であるように思う。
あとわたしは心からの「他者のため」という概念を根本的に信じていない、というより強く否定している。その上で成り立つフレームワークでないと他者貢献って成立し得ないと思う。わたしが7部で説いたことです。
ここでの「慈悲の発露」はわたしがさっき言った罪滅ぼしの考えと結果としてあまり変わりないと思う。ヴァルジャンの慈善事業を慈悲と捉えるか罪滅ぼしと捉えるかみたいな話でしかないし、それこそコペンハーゲンと多世界みたいな解釈のレベルにしかならない。
禅には「莫妄想」という考えがあり、妄想こそが執着の根源であり、妄想を一切やめればそれがそのまま悟りの心境であるという。
生と死・善と悪・美と醜・得と失・勝と負・悟と迷というように、物事を相対的にみて、一方を取り他方を捨てようと分別し、それに執着する念慮をすべて妄想というのである。簡単にいえば、迷える想念のことである。したがって、「莫妄想」とは、「相対的な見方に立って思いわずらうことなかれ」という意味である。
(芳賀幸四郎「禅語の茶掛 一行物」)
妄想とは分別だということらしい。言論に反して絶対主義よりは相対主義寄りな考えな気はする。
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