無気力は無欲である
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ウディコン2025がいつの間にか終わっていた。
前回以前の参加者(投稿者にしても投票者にしても)がだいたいずっと続投しているのが本当にすごいなと思う。よくそんな熱量を何年ももってられますね。素人の祭典相手に。これ冷笑?いいえ、本気で憧れているのです。
私はただの一回で飽きてしまった。それもそこそこいい順位を貰っておきながら。なんだってそうなのよ。しかしこの件について深く考えてみると意外と悪くもない話かもしれないとも思わなくもない。
逆に(出たよ)なぜ人がウディコンに参加し続けるのか、というのを形容してみると、「欲」のためですよね。参加者側としては、もっといい作品を作りたい、もっと多くの人に届けたい——投票者としては、もっとたくさんの良い作品に出会いたい——という「欲」を動力源にして参加し続けているわけです。
わたしにはその欲がない。ウディコンが嫌いなわけではまったくない。興味がない、という表現も少し違う。満足しているのです、過去の時点までで十分すぎるほどに。つまり「もっと良い作品をたくさん遊びたい」という欲がない。見るべきほどのことは見つ。(平知盛並感)
もう充分面白いものは見たし、もっともっとという気持ちがまったくない。だから参加者としても投票者としても身を引いているだけ。
死に物狂いって本当に死ぬこともあるくらい大変だから、ある意味での「すごい」とか「偉い」という部分はもちろんあるんだけど、それは(高貴な精神で)逃げ癖をなんとか直してそこまで持っていったというより、脳の構造のために身体がそっちに向いちゃってるだけなんです。考えてない。
手を抜けるところを探して手を抜けるって人はすごい技巧派なんですよ。それができる実力があるんです。それを他の人と比べて後ろめたいと思っているのは損ですよ。
それをチャーム(魅力)として捉え直して見ると道が開けるかもしれない。
世の中には受け皿ってけっこう無限にあるので、自分に合う受け皿なにかなー、あ、ぴったり来るわってところを探すといいかもしれません。
それは他の人と比べていると生まれにくいものだと思います。
星野源のありがたいお言葉。わたしはむしろ本気や熱笑に焦がれるよりアパシーを正しく包み込める受け皿を探すべきなのかもしれない。
そうだな……わたしには欲がない。無欲と無気力は同じイデアを言い換えているだけな気がする。努力至上主義の観点からは無気力であり、禅の観点では無欲であると。
熱中って、「欲」をガソリンにする以外ないんですよ。あいつに勝ちたい、上に行きたい、知らしめたい、認められたい、もっと健全に言い換えれば「より成長したい」でもいいんですけど、そういう”I want”の心持ちがないと生まれようがない気持ち。
特にない
望みなどない
わたし期待せずに歩く
特にない
願いなどない
わたし身を任してる
特にない
渇きなどない
わたし 満たされてる
藤井風『特にない』
こういう凪の心はapatheticにならざるを得ない。だからどうenthusiasticになるかを考えるより、apatheticでもいいじゃないか、というところから初めてガーデンを育てるべきかもしれません。
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