愛集
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ラディカルな言い方をするならば、愛に受取人の意思はいらない。無償とはそういうことです。私が愛したと言えばそれは愛なのだ。博愛なんて楽なものだろう。
愛のことを「相手の思想や状況や感情を慮り、最適なアクションを取ることで当人の幸福度を上げること。いずれかに失敗した場合それは愛ではない」みたいな意味不明な定義付けをしている人が多い気がする。愛を贈った結果どうなるかなんて知ったことか。「知ったことか」しかないんですよ、なぜなら神ならぬ身の我々には行動の先の未来なんてわかりゃしないんだから。受け取り手の幸福度向上を確実に保障しなければならないなら我々は誰も愛せないことになる。やれるだけやってあとは(神に)任してって風まろも歌ってたし。
れいの
種崎敦美女史が一番好きというドラマ「世紀末の詩」では、愛とは時の流れに関係があると語られる。文脈を考慮すると焦点は微妙に違うのだけど、私もそれには賛同できる。真なる愛の発現には充分な「時間」が必要不可欠だと思っているから。出会って一秒で恋に落ちました、みたいな愛は少なくともその時点では下層も下層の最低レベルの愛。それが十年二十年と続けば本物にもなろう。私は愛において「きっかけ」をさほど重視していない。大切なのはそれがいつまで続いたか。愛に「短く深く」などあり得ない。深い愛なら必ず悠久に等しく続くからだ。短く深くというのは恋愛特有の思考の酩酊と錯乱を「深く愛している」と錯覚しているにすぎない。しらふで語れぬ愛は愛ではない。
つまり……私にとっては愛とは時間であり、時間こそが愛なのです。大げさに言ってしまえば。長く連れ添った者同士は、互いの多様な一面を知っている。すでに失われてしまった一面さえも。そういう無情な時の流れによって何度も掻き回されてぐちゃぐちゃになって原型も思い出せなくなるくらいに互いの心身が変わっても、なお続く何か、私はそれを愛と呼ぶんだぜ!!(サンボマスター選手権)
羽根
愛、それは谷川俊太郎先生の一番好きな言葉であり、逆転しない正義のうちのひとつであり、基督教の基本原理であり、人間にとって最も大切なものなり。喜怒哀楽のすべては愛に通ず。ヒトは愛のために喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。もし人生に普遍的かつ包括的なゴールがあるとすれば、それは幸福ではなく愛だ。愛しか勝たん。ここまでは間違いない。次なる問題は……愛とは何かということだ。
ときには人殺しさえ愛になり得る。「そうか、あかんか」のエピソードなんかはその典型例だろう。人々は、あの殺人に愛を感じたから同情した。翻って、同じ人殺しでも宅間守は、人々が愛を感じなかったから糾弾された。おや、愛とは多数決ではないか?愛は人々に「愛」と呼ばれなければ愛とは是認されないのか?ペドフィリアは愛なりや?ネクロフィリアは?オキュロフィリアは?「世界ではこれも愛と呼んで欲しい」そんな叫びがなければ是認されない愛。stillborn love。死産の愛を救いたい。私が倒錯した話が好きなのは、そういった愛が救われる物語を見たいからなのかもしれない。愛が愛と是認されないなんて、悲しすぎるじゃあないか。愛は愛だよ、何があっても。

最近の異常なまでの被虐欲求の原因を自分なりに考えてみたのだけど、やはり私は愛に飢えているのかもしれない。愛の不感症なんです私は。何度愛していると言われても、何も感じられない。愛している、と言ってくれる人はいる。だけどそれでは満たされない。幾千の言葉より、カラダを使ってもらった方が愛を感じられる。道具でいいんです……いいえ、道具がいいんです……。奴隷になりたい。一生飼って……。私のことめちゃくちゃにしてくれるご主人さま、どこかにいないかな。サンドバッグでも、なんでもいいんです。使われたい。隷属したい。服従させられたい……。でも私に命令してくれる人はいない。はぁ……もう、お金を払ってもいいから、いっぱい変なことされたい……。
[just let me be](/blog/just let me be)
フロムの思想だと「真の愛」には理性が必要であり、それは子供の頃の全能感という幻想から脱却し謙虚になることが必要だそうだが、彼の理論だと子供は真の愛を達成できないことになる。これは私の信条と反する。もし真の愛なるものが存在するのなら、それこそ子どもが真っ先に会得し成長過程で失ってしまう”それ”ではないのだろうか。
私にとっての愛とは「打算のないこと」に尽きるのではないかと思う。そうすることに何の利益もない、あるいは殆どの場合自身はただ損をするだけの行為。
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「愛が最強」ということを骨身に刻むのが一番効くと思います。何が起きても、何をされても、いかなる場合も最良の答えは「愛」。愛を選べなかったときは内省する。愛を選ばれなかったときは愛で以て赦す。愛が絶対善というルールを覚えておけば、「何が正しい」みたいな悩みには取り憑かれない。「それでえーの?」と自分に問いかけたとき、常にYESと答えられる自分でありたい。
あと「見返り」を求めないということ。相手のためというより自分のために。見返り求めるからいつも傷ついて終わる。
与えるときは、ただ与える。何も期待しない。期待すれば囚われる。捨てれば捨てるほど囚われるものが減っていく。
とはいえ人間だから、特に何か大きなものを与えた時になんにも感謝されなかったりしたら悲しくなるのはわかる。つい最近もそれでちょっと悲しくなったことがあった。で、しばらく考えてみて気づいたんだけど、多分 「見返りがない」ことこそが一番の見返りなんだと思う。見返りがないってことは、自分が与えたものは「無償の愛」ということで、無償の愛の実践が一番精神を豊かにする。つまり一番獲得経験値が高いんです。それこそが一番の見返り。それに「一は全、全は一」なんだから、もはや自分も他人もない。自分の量る秤で量り返されるのだから、あてにするものなどなくていい。すべての命はつながっているのだから、与えればそれだけで与えられる。与えられるものこそ与えられたもの。
風さんの影響でかなりスピリチュアルに傾倒してきた気もするけど、どのみちわたしの第一信条が「愛」というのはずっと変わってないし、今までより健康的なアプローチの仕方を風さんに教えてもらっただけだと思っている。もともとクリスチャンやし、いまさらスピリチュアルも何もなし。別け隔てなし。たとえ誤魔化しでも楽しい歌歌おうぜ。
迷いながら探すの
僕は別に愛の歌は嫌いではない。癪に障るのは、「愛の歌」と銘打つ曲たちはほぼすべて「恋愛」の話しかしていないこと。
愛の意味を誤解してないか。親愛、家族愛、慈愛、隣人愛、ぜんぶ愛でしょう。しっかり歌え。
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命は平等なり
職業に貴賎なし
愛は世界を救う
きれいごとばかり抱え込んだが
土砂を抱えて生きるよりましだろう
ぼくはそのきらびやかなうそを愛してみせよう
腹の底から
resurrection237 きれいごと
ところでどうしなすった、私はあなたに燭台もあげたのだが。>いいぜ、真月>コムギ ありがとう>うれしくない。これからまた、ずうっとドラえもんといっしょにくらさない。>そうか、あかんか。 一緒やで>みゆき、またずっと来い>今でもべつに、お前のことを怒ってはいないんだ。>愛してる>好き
resurrection237 愛強さ議論
最近思うのが、『墓荒らしをするファン』と『それを毛嫌いするファン』なら、信仰対象が死んだ時により強いショックを受けるのは間違いなく前者の人間たちだろう、ということ。
愛とは狂気だ。度合いが強ければ強いほど一般常識的には狂って見える。正常であるなら愛が弱い。より正確に言えば、信仰度が低い。理性の強さの問題などではない。人間が持つ理性などそう変わらない。
後者の人間も信仰対象を愛しているには違いないのだが、それは人生において重大な影響を及ぼすに値するほどではない。故に対象が死んでも、せいぜい数日~数週間落ち込む程度で、それが過ぎれば基本的には元通りだ。もちろん、数ヶ月に一度思い出すことはあるかもしれないが、それ止まり。これが平常な人間、つまり後者のような人間である。
転じて前者のような墓荒らし組は、社会から落伍してもうそこにしか救いがない人々だ。だから異常なほど強く信仰する。救いを求め縋りつく。そういう人たちにとって対象の死は神の死に等しく、所謂アーティストへの『後追い自殺』をするような人はここらへんの層に属している人だろう。そこまで箍が外れ得るのは、それほど信仰対象が人生の光であったからだろう。
要するに、後を追わずに済む人は他にも人生の「生きがい」が沢山あるが、そうでない人は追わずにはいられないということ。
本題はここからだが、基本的に一般道徳の下においては前者のような人間どもは悪とされる。
このタイプの「悪」の分類の仕方は、「貧乏差別」とか「田舎差別」や「片親差別」に近い。俺の意見では、彼らは悪ではなく、「社会的に地位が低く、貧弱な人々」というだけだ。これを悪とするなら社会的に地位が低い人間をまるまる悪としなければならない。
前々からそうだが、俺は彼らのような人々を忌み嫌う風潮に疑問を抱く。彼らのほとんどは望んでそんな地位や性格に堕ちたのではない。生まれ持ったどうしようもない環境や、色々な複合条件が運命を歪めてしまっただけだ。こう言うとよく「貧乏人でも田舎者でも、高い地位まで上り詰めた人や性格良い人は山程いる。本人に問題があるだけ」というマウントのとり方をしてくる奴がいるが、それはたまたまホッキョクグマに勝ったアザラシの動画だけを見て「アザラシはホッキョクグマより強い」と言ってるのと同じだ。サイコロを2回投げたら3が連続で出たから「このサイコロは3が出やすい」と言ってるのと同じだ。基本的にアザラシの方がホッキョクグマより強いしサイコロの目は均等に出るわけで。目立った一例を切り取ってマウントを取るのは酷い。
まあつまり何が言いたいかと言うと、彼らは負けてしまって残されたものはあてのない未来だけだのに、人々が離れていってしまったらどうにもならんだろうということ。幸福な人に人々が寄っていき、不幸な人からは離れていく。富める者がさらに富み、飢える者がさらに飢える仕組み。なぜ不幸者を棍棒で殴るのか。なぜ救いの手を差し伸べない?俺は苦境の中にいる者を見捨てたくない。それが背徳者であろうと殺人者であろうと。苦境にいるなら一匹の子羊だ。
軽症人と重病人の患者が舞い込んできて、前者を優先して治療する医者がどこにいるのか。今はそういう状態。世界。誰かが救おうとしなければ落伍した者どもはもう一生掬い上げられない。自暴自棄になって社会的不徳を繰り返す下人を見るたび、俺は胸が締め付けられる。どうして彼らに怒りや軽蔑を覚えられるのか。彼らはいつだって救いを求めて暴れているのに。(ちなみに救い=死であることもある)
resurrection237
愛憎は一列つなぎのオセロに似ている
積み上げた白はすべて黒に変わる布石でしかない
resurrection237 負け
人間が心の奥底で本質的に最も求めている存在に限りなく近いのが童謡なんです。我々が普段抱く望み、辿っていくとそれは他者もしくは超越的存在からの「慈愛」にほかならない。我々はみな「慈愛」を求めて人生の航海を旅しているのだ。それを与えるのが「童謡」です。つまり童謡は、親の愛を知る子供にはがらがらとして、子を愛する幸せを知った大人にはしずかなる幻灯機として、どちらも失ってしまった大人には冬の日の太陽として、姿を変え遍在できるのだ。別に「子供のための歌」という定義は崩れませんよ。むしろそれを徹底して追求することが結果的に「大人のための歌」にもなるのです。「ポケットにファンタジー」を考えれば一番わかり易いと思う。けっきょく我々はみな子どもで、大人になることを強制されたに過ぎない。否、今も「され続けている」のだ。「子供のための歌」とは、子供に寄り添うとともに、「大人」としての我々ではなく「一人の尊い人間」としての、やわらかい生命としての我々を視てくれる存在でもあるのです。童心を表現した、子供のための歌や詩。さぁ、今日から君たちも童謡マスターだ。
resurrection237
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