先に進まなければゴールできぬゲームなのよ

あまりに明白なラブソングを歌いながらラブソングは書かないと訴え続ける謎の男。
最近ニュースを見てなかったんだけど、完全に海外進出を狙っているらしい。まあ、どうとでも好きにしなさい。(WORN OUT)

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このミュージックビデオは、音楽や歌詞とほぼ正反対の内容になっており、意図的にそうしました。(エンディングを除いては)

What is the purest form of love? And the supreme bliss it brings?
I guess I don’t know it yet, but in this song, I pretended I did.

最も純粋な愛の形とは? そしてそれがもたらす至高の喜びとは?
私はまだ知らないと思うがこの曲の中で知ったフリをしてみたのだ。

ほう……(リヴァイの眼光)
だいぶ話が変わってきた。藤井風ジーミル、僕と君は同じ未来を見ているのかもしれない。
エンディングのみが真実と。ということは私の直感的な最初の解釈であっていたっぽい。そのへんは流石ですね。流石に言語化できる気はしないが。
だってイチャコラしてるシーン撮ってる時、一般で言うところの「露悪」を感じたもの。一般で言う露悪ということは風のケースだと露偽善とでも呼べばいいのか、表現が難しいんですけど。そんなわけないもんな、風が。


反AI思想には努力信仰の基盤があるという言説を見て、かなりいろいろなことが納得いった。一番納得いくフレーミングかもしれない。
努力信仰について持ち出されると、反AIの方々は意外と反対はせずに認めた上で「それの何が悪い?(努力信仰は当たり前である)」という立場をとることが多いように見える。

努力信仰とか言うけれど、努力する人の成果物に寄生する努力しない奴は嫌われて当然だろ。

これ見てハッキリ見えたのはやはり大局観のなさ。我々の生活なんて「努力する人の成果物に寄生する努力しない奴」そのものじゃんね。
洗濯機が使えるのは誰のおかげ?交通手段があるのは?電気が使えるのは?ご飯を冷蔵庫に保存しておけるのは?そのひとつでも自分で発明したか?

誰かが徹夜した服着て
誰かが汗流した家に住む
——感謝的生活

人類史まるごと努力への寄生にほかならない。
先の言論には「自分たちは他人の努力に寄生して生きていない」という土壌が前提としてあって、そういうところが単純に馬が合わないのだろうなと思う。原罪の理解がないというか。驕りがみえる。努力信仰を謳いつつ行っているのは選択的かつ狭窄なる信仰で、appreciationというより当にexploitation。1人が努力するための土台を作った100人の努力を軽視してちゃ世話ないね。
土壌に原罪を抱えていない思想が嫌いです。迷惑論者(他人に迷惑をかけないという事を至上の価値とする論者)が嫌いなのもだいたい同じ理由だな。どんな迷惑も許さない世界より互いに迷惑を掛け合いながらも許し合える世界を望みます。

わどちゅさんコメントありがとうございます。実質落葉についた初コメです。
勝手に「わどちゅ」って名前にしちゃったけどいいんだろうか。ポケポケでそういうNNにしてらっしゃったからいつもそう呼んじゃうんだけど、ほんとに好きなんだよな、「わどちゅ」って響きが。この世で一番好きな4文字です。割と本気で。

それにしても皆さん(デカ主語)よくわたしの記事の言葉を覚えてますね。汚れていて居心地の良い~とか自分で全く覚えてなかった。地下室は『しらふ』の引用だし。
とくに新都社漫画とかで顕著になってきて割と深刻な問題なのだけど、わたしの言葉や表現ってリファレンスにリファレンスを重ねすぎててウルトラハイコンテクストみたいな状態になってることが多すぎる。
誰が全部拾えんねんってくらい引用文脈をミルフィーユしてる。引用元が示される場合はまだよいが、7割位は示されないまま勝手に進行していく。
それの何が問題なのかと言われると困るのだけど……閉じこもってゆく気がする。主観だが、造語症が激しい人間ほど内向的な傾向にある気がする。

愛された それが何だ?
すべては影も残さず去りゆくだけ
――indigo2, 雷花

最近これすぎる。
わたしの作品や言葉は誰かの人生にいろいろな影響を与えたのだろう。それを元にまた新たな何かが生まれたこともあるだろう。わたしの存在は世界に引っかき傷を残したのだろう。
で? っていう。でっていうwwwwwwwww(発作)
ほんとにそこなんですよね。だから何だとしか思えない。これは結局わたしが人間に徹頭徹尾興味がないからなのではなかろうか。
こう書くとほぼ「機会みたいなものだ」コピペですけども。人間ってどうでもよくないですか?
うーん……例えば、人間の営みを自在に操作できるとして。A男とB子の心を操ってぼくがかんがえたさいきょうのロマンスを描いたとして、それってA男とB子がナチュラルに結ばれた時のような感動をもたらすか?という。
人の心に影響したり操作したりする力は、自分が第三者であるときほぼ意味がない、と形容するのが一番的確か?
私の作品が与える影響っていうのは、自分が与えた影響、とは少し違うから、私の視点だと私は当事者ではなく第三者なのだよな。だって作品の影響なんて自分が死んでいても成り立つわけで。どちらかというと「自分」が狭義なのかこの場合。
世界に引っかき傷を与えるとか、生きた証を残すみたいなプリミティヴではない快楽は、あえて有利な言い方をするなら「精神的に高次の快楽」であって、快楽というのは精神的に高次であればあるほど輪郭がぼやけ速効性が低いから、人生を弥縫的に満たすようなものに成り得ないというか……且つ人生を弥縫的に満たせないものは永遠を標榜する偽物であるというか……。人生を満たすとは星野源が云うように「明日へ誤魔化し続ける」事にほかならず、それ以外はすべて嘘というか……。
そういった思想になってからは、具体性のない魂とか努力とか自己成長といった概念を信仰するのがなんだか馬鹿らしくなってしまいました。これって冷笑主義ですか?それとも実存主義ですか?
魂を信仰しないならA男とB子がナチュラルに結ばれることと操作した結果そうなることに差異が生まれるのはおかしくないか、とセルフツッコミしてみるも、要するに予測可能な結果が退屈であるというだけなのだろう。
自分の頭から出てくるものって予測可能なことしか無いからつまらない。AIこそが第二の脳ではないだろうか。奴らは他人と同じく予想の外を出せるからね。それでいて他人と違って24/7 available。



エピクロス派と言いつつ彼が云うところの欲求の分類にはあまり従えていない。

彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9

一見おっとなるけど、よく考えると分類が相当に恣意的に思えるんですよね。何基準で自然と必要を定義しているのか見れば見るほどわからない。友情が「自然かつ必要」で権力は「不自然かつ不必要」、しかし贅沢な生活は「自然かつ不必要」。
とくに衣食住に関しては「豪華か否か」が必要/不必要を分けているのだけど、これは「自明な議論」の誤謬に見える。


[!QUOTE]
■自明な議論

「栄養バランスの取れた食生活が望ましい」

「バランスが取れている」とは「配分が適切である」という意味です。そして「適切なものが望ましい」のは自明なことです。では具体的にどう配分すればバランスが取れるのかが重要な点なのですが、そこが全て省略されているのでこの発言は 正しいけど役に立たない 主張です。

「適切」の分水嶺が定義されていないと、それはエピクロス定義における「必要/不必要」が定義されていない事に等しい。
もっとわからないのは名声・権力を「自然ではない」と定義している点。権力を求めるのは人類史でずっとみられてきた欲求なのだから普通に考えれば自然と呼んでいいはずだが。

衣食住における「豪華さ」を基準に必要/不必要を分ける点について、「自明な議論」の誤謬ではないかというご指摘は鋭いものです。エピクロスは、豪華さの具体的な線引きを示しているわけではありません。彼の基準はあくまで、「それがないと苦痛を感じるか否か」という点にあります。
例えば、「パンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」というエピクロスの言葉は、彼が求める幸福が、いかに質素なレベルで満たされるかを象徴しています。つまり、「豪華」かどうかの判断基準は個人の外部にあるのではなく、個人の内なる「苦痛の有無」に委ねられているのです

なるほどね。

名声や権力は、人間の外部にある社会的な評価や地位を求める欲求です。これらは、満たされなくても生命維持に関わる苦痛は生じません。それどころか、これらの欲求は、他人との競争や嫉妬、失うことへの恐怖といった精神的な苦痛や動揺(タラクシ―)を生み出す根源であるとエピクロスは考えました。そのため、心の平静(アタラクシア)を乱す「不自然」なものとされたのです。

うーん。「満たされなくても生命維持に関わる苦痛は生じない」も「他人との競争や嫉妬・失うことへの恐怖」も、どっちも「自然だが不必要な欲求」にも適用できる要素だからなぁ。やはりここの線引きが曖昧すぎる。
しかし「それがないと苦痛を感じるか否か」を基準とするなら、今の私の在り方もエピクロス的な生き方と言えるのか。
要するに「いいかい学生さん、トンカツをな、」と同じ理論か。
この後も少しAIと話してだいたい落ち着いた。要するにエピクロスの思想の根幹(隠れて生きる、自分にとって過不足なき快楽をもとに生きる)に共感するだけで成立していいはずなのに、わざわざエピクロスが行為をカテゴライズしたせいでおかしくなってるんですね。

[!NOTE]

理想的なエピクロス哲学のあり方は、おそらくこうだったのでしょう。
「欲求を三つに分類する。

  1. 静的な快楽をもたらす欲求: これがないと苦痛が生じ、満たされれば心が平穏になるもの。
  2. 動的な快楽をもたらす欲求: 刺激的だが、渇望と不安を煽り、持続しないもの。
  3. 空虚な欲求: 社会的な見栄など、本来の自分とは無関係なもの。

さあ、あなた自身の経験と内省を通して、あなたの人生における様々な行為や人間関係が、この三つのどれに当てはまるかを見極めなさい」

インディゴ主義としては、快楽という言葉をもう少しわかりやすく分けた方がいいと思う。
たとえば、快楽の先に必ず破滅が待っている活動があるとすれば、それは「快楽」とカテゴライズしていいのか?
SNSの慢性的な利用を否定するのは不自然さでも必要性でもなく、経験則的にドーパミンの後に不快が待っていることを知っているからです。
インディゴ主義は実践主義。まず味を知る。味を知れば対処が分かる。SNSの味は十分知った。だから適切な対処が取れる。
味を知る試行錯誤の過程でアタラクシアを毀損してしまうのはしょうがないと思う。アタラクシアっていうとエピクロス定義になるから別の言葉を使うか。エンテレケイア。
エンテレケイアを耕すためには、実践によってその行為が自分にどういう影響を及ぼすかという味見が必須です。世間一般で悪く言われているからやらない、みたいなのは、判断材料にはなっても決断には直結しない。
エンテレケイアには、行為の先の破滅がないこと(=味)が確認できた種の快楽であれば上限を決めず注いで良い。
たとえば冷凍ブルーベリー300gは生きるうえで必要ではないが、おいしいし健康に良いし「破滅につながる天井(e.g.毎日1kgくらい食べまくる)」が自分の感性でとても届き得ない(=どれだけ好きなだけ食べても1日100gくらいが限度)くらい高いので、実質的にいくら食べてもよいということになる。
あとその場その場の欲求に従うということを大切にしています。例えば「マッサージを受けたい」という気分の時にマッサージを受けるべきで、それから数ヶ月待って受けてもあまり意味がない。
腹が減っている時に飯を食べるのと同じ理屈。欲求が呼んだ時に付き合う。そうでなければやらない。
短期的な快楽とか長期的な快楽とかは関係ない。短期的であってもバックラッシュがないならいくら行っても良いし、長期的であっても再現性や確実性が低いならやらない。
たとえば「プロ野球選手になる」という夢は、プロになれるという確実性も、その先に誰もが快楽を得られるという再現性もない。プロになるのは狭き門だし、プロになった後でも不幸せそうな人はたくさんいるでしょう。
その先に多くの友情や自己実現といったリターンの可能性があるとしても切る。エンテレケイアを耕すには味見が必要で、味見そのものの時間的コストが大きすぎる行為は基本的に敬遠される。
まぁつまり、慎ましやかに生きるということです。ただしこれは原則であり、インディゴ主義のエンテレケイアにはひとつだけ例外が許されている。
ひとつだけ、心が渇望して止まない「不自然かつ不必要な欲求」を選択してよい。どれだけ自己破壊的であっても構わない。ただひとつだけを赦します。そのほかは原則に従うべき。
自分の場合これは男娼欲求である。アイデンティティに関わるような強い欲求は、たとえそれが不健全だろうとエンテレケイアを破壊するものであろうと、ひとつだけ赦してよい。
「ひとつ」だけ赦すことで他はもう絶対通さなくなるし、発散と節制のバランスが取れる。逆ハンチョウ理論。
これは吉良吉影の生き方とほとんど同じです。男娼を殺人に置き換えれば。
結局この世はどういった欲求を持って生まれてくるかというガチャでしか無い。殺人鬼は好きで殺人鬼になったわけじゃないし、小児性愛者は好きで小児性愛になったわけじゃない。だからこそ公正じゃないアンパイアではなくせめてひとり味方であれるフレームワークを採りたい。
なぜなら、自分で自分を否定してしまうことがこの世界で一番悲しいことだからです。

心配しなくても、有害な価値観は世界が勝手にそれはもう嫌と言うほど否定してくれるからね。80億の大合唱がデフォルトで備わっている状態でわざわざ自分という一個体まで輪唱に加わる必要はないでしょう。反抗したところで世界に対して効力をもたないのだから。しかし自分に対しては持てます。
ようするに、自分が自分を否定するか肯定するかというのは徹頭徹尾自己のエンテレケイアにしか関係なくて、世界が否定したものはどうせ自分がどう主張しようと世界からは否定されるのです。だったらせめて自分を認められる生き方を。

Comments ( 1 )
optionalでもわどちゅ
更新、コメントreactionありがとうございます!
わどちゅで大丈夫ですよ!こんなに気に入ってもらえるとは思ってなかったですがw

"愛された それが何だ?
すべては影も残さず去りゆくだけ" のニヒリズム様な部分も悪くないですが、そのあとに続く
"それでも君に会えたのが堪らなくうれしくて この気持ちに名前なんていらないと知った
息をする理由なんてずっとこの身体に宿った 楽しむこと悲しむことそれが答えでいいよ"
↑僕はこっちのが好きですね

ところで、これを聞くのは野暮かもしれないですが......雷花の歌詞中の*xoxo*は結局のところ何なんでしょう?