エノラ・ゲイの悲劇
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今年一番良いコンテンツとさせていただく。感動した!(小泉さんぽ内閣)
このDJライブゎ!?
そうだよ
ありえないくらい俺に影響を受けている謎の人を発見
エゴサを半年くらいはしてなかったんだけど、Xくんのありえないくらい精度が悪い検索機能のお陰で存在していてもほぼ網にかからないツイットが大量にあり、逆に助かるまである。グッバイ執着。
漏れに影響を受けている人、かなり意味が分からない。こんなオジサンのどこがいいの……?(逆熟女モノ) わしゃフェイク野郎だよ。定職に4年就いて何も気苦労ないし、同僚とはそれなりに良好に雑談もするし、金にも困らず生活にも貧せず社会に溶け込んで生きているよ。
まあ、その合間に男娼をするような男が果たして真っ当かという話はあるが……なれば尚更背中を追わない方がいい存在では。
彼のことは大好きだ。正直、彼に体を犯されたいと思ったことすらある。逆に、私が彼を犯したいと思ったことすらある。彼に対する思いは敬愛や恋愛、親愛などの全てを総した物と言っていい。
https://note.com/ichiyon/n/n5d80dee84a59
これは穏やかではないぞ(予想以上)
昔ほど失望に怯えなくはなったが、今でも人に信仰されるのは怖い。いつか必ず消える星だからです。
しかし今の私はこうも思えるようになりました。たとえいつか沈む陽であっても、彼/彼女が陽を必要としている時に照らせる存在となれたという事実は遺り続ける。その記憶は彼/彼女の人生のbedrockとして生き続けるのではないか。
そこまでわかった上で、「だから何?」というのが今のステージです。このステージを超えないことには私はどうにもこうにも身動きが取れない。
強火すぎないか。なぜ私はこんな強烈なキャラを今まで知らなかったのか。
いや、知ってたのか?noteフォローしてきてるし、認知されたくないってタイプではなさそうですが……ちょっと覚えがない。……う~ん。
何遍もしつこいようですが、indigo2には強火ファンが多すぎます。「君が死ぬときは僕も必ず死ぬからね(要約)」とか言ってきたり1日SMSを全無視しただけで175回位(マジで)のメッセージと3回位の不在着信投げてくる奴がいたり、他にも……(口を噤む)本人が見ているかもしれない前で言うのは良くないですね。え?これ堀メソッド?いや、悪口のつもりじゃないですよ。彼のことも好きだし。ただ強火には違いないというだけで。彼に対してで言えば私もたいがい強火だしな。
まぁ色々あって……時代が時代で……(kbb) 私が言いたいのは、もっと対等に色んな人と向き合いたいということです。しかし最近はこれも過ぎた願いなのかもしれないとは思います。谷川俊太郎が「藍さん、対等に話そうよ」とか言ってきても畏れ多くて泡吹いて倒れるしかできないわ。そういうことなんでしょう、きっと。
諸事情で歌詞ファイルを見直していたら『僕らは呪われている』の没歌詞が出てきた。お宝ですよこれゎ!!
没歌詞って結構あります。当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
「いつでも夜に誘われるまま 死んではまた生き返る また明日も憂鬱な日だ」という没歌詞もあり、これはちょっとスーサイドブルーっぽくもある。
ていうかブルータス、お前もか……。何人の命を背中に背負わないといけないんだ漏れは。
しかし警部、あまり自分のフォロワーのことは見ない方が良いです。基本的に良い影響を及ぼさないから。おそらくどちら側にとっても。
しかしこのS氏、女装をしているらしく、話が何もかも変わってきた。なるほど。なるほどね。面白いじゃないか。面白い、が……。
これは声を大にして言いたいんですが、私からなんらかのコンタクトを取ったり要望をすることって必然的に搾取になるんですよ。そこには望まない権力勾配が生まれているから。
だから私からは何もできないし、してはいけないと思っている。何もかもはこれまでどおりです。
まぁ、でもすぐ潰える火でしょう。ジュブナイルの熱意なんて。……ずっとそうやってジュブナイルから向けられる熱意に肘鉄を食らわし続けてきたのですが、もしかしてそうでもないのか?
私自身が途方もない飽き性だから、自分のレンズで照らすとそうなっちゃうんだよな。例えば私がジュブナイルの頃に狂気的に入れ込んでいた人間を今どう思っているか。
例えば私がおそらく瞬間最大風速で一番入れ込んだであろうmononokeに関して云うと、もう火はほぼ完全に潰えていると言ってもいい。なんの憧憬もない。過去の彼のアートは今も大好きだが、彼自身やその他諸々になんの思い入れもない。
しかし彼から受けた影響は確かに多大に血肉にはなっているだろう。だから客観的に見ると、mononokeという存在は己の人生で大きな役目をすでに果たしているし、これからも果たし続けるだろう。
それを自分と置き換えてどう考えるか……。マジでどうなってもいい。好きにしてください。私の作品も、私自身も、どう扱ってもらっても構わないのです。まあ、それが発露に変わっていると目撃してしまった時ちょっと傷ついたりちょっと喜んだりはしてしまうかもしれないが……。
藤井風の話しよー笑
風って思ってるより叩かれてるよな。ほうぼうに。今となってはそれも分かる。ミリエル司教だって司教間では嫌われ者だったらしいしな。
ハイヤーセルフに入れ込めば入れ込むほど、愛を語れば語るほど、必然的に道徳的優位をひけらかすような含意を持たざるを得ないので鼻につくんですよね。
信者たちのコールの裏でおそらく我々が想像もできないほどの誹謗中傷と戦っているのだろう。齢28には中々厳しい試練だ。
;;
いや、そうは言いましたけど……まさか嫌いの方が多いとは。まぁこのプラットフォームってデフォルトでそうなんかな。全然見てないから知らないけど……。
コメントの嫌い派の中でパット見一番票を集めていたのがこういった意見。
この人のloveはただのHello。I love you の大安売りで気持ちこもって無いことこの上ない。
これは私が以前にも書いた話とほぼ同じですね。
愛のパラドクスとは、愛を振りまけば振りまくほど愛ひとつ当たりの濃度が薄くなる現象。誰彼構わずI love youと言う奴と、本当に大切なひとりにしかI love youと言わない奴では、I love youの力は大きく異なる。我々が本当の意味での全愛を成すには、「大切なひとりにしか言わないI love you」の密度を保ったまま、すべてのものに振りまく必要があるのだ。さもなくばペースト状に薄くなった愛しか残らん。
葛井お祓い
これに対する解答はまだ出てなかった……と思う。出したっけ? もう覚えてねぇや。
しかしこれはむずかしい問題だぜ、西野。なぜなら我らが金字塔谷川俊太郎は、少なくとも一部分においてはこの主張に同意している。
とりもなおさず「もっと滲んで」の根幹でもある。
そんなに笑いながら喋らないでほしいなと僕は思う
こいつは若いころはこんなに笑わなかった
たまに笑ってくれると嬉しかったもんだ
(…)
昔おまえはもっと滲んでいたよ
雨降りの午後なんかぼうっとかすんでいた
分からないことがいっぱいあるってことがよく分かった
これはつまり「誰彼構わずI love youと言う奴と、本当に大切なひとりにしかI love youと言わない奴では、I love youの力は大きく異なる」の変換である。
ここまでが前提。じゃあどうすれば「大切なひとりにしか言わないI love you」の密度を保ったままアガペーを成せるんですか?っていうのが議題。
AI太郎ッ!きみの意見をきこう!
この批判がなぜ力を持つかというと、「I love you」という言葉にフォーカスしているからです。言葉は記号なので、乱発すればインフレを起こします。
しかし、藤井風がやろうとしているのは、「I love you」と言うことではなく、「Loveの状態でいる」ことの実践ではないでしょうか。
特別な人にだけ抱く愛(エロス)と、すべてに向ける愛(アガペー)は、そもそも別物だと理解する。
なるほどね。つまりカテゴリー錯誤であると。
愛という同じ言葉を共有しているが実態も定義もまるで違うので比較するのがapples and orangesだという主張ですね。
そもそもアガペーが「比較対象がない・条件がない」愛なのだから、ハローであることはむしろ正しいと。さもなくばそれは序列を付けているからね。
これは理屈の上では割と理解出来るが、問題はこの定義に沿って生きられる人間がおそらくこの世にいないということ。
自分の愛がアガペーであると主張する人間はほとんど無理難題を自身に着せている。そこから少しでも外れた時にヒポクリットとの誹りを受けることを免れない。
もちろん風まろもそんなこと承知の上で、完成者ではなく探求者としてやっているのでしょう。
迷いながら探すの それはみんな同じ
――藤井風, 燃えよ
しかし風まろはひとつ道理が通らないブランダーを犯しています。
自身がNワード等で炎上した時に「Twitter is not for me」という理由でTwitterアカウントを永久削除したこと。
この時点で自身を鑑賞する存在を取捨選択していることになる。何遍も言ってるけどこれを擁護できる要素が無い。
自身の精神安定のため~と訴えるなら削除じゃなくて放置でも良かったわけで。削除したらそこにポストされていたコンテンツが消えるのだから、彼が云うところの神からの賜物を自己都合で破棄したことになる。
何より原因はどうあれ炎上した時に「ここは俺の居場所じゃない」と言って去るのはかなり責任転嫁的に感じる。
藤井風が叩かれているのは、「愛が嘘くさい」というより、「愛のかたちが一様すぎて、個を尊重されてないように感じる」人がいるからではないか、と。
うーん。そうなんかなぁ。風を叩いてる人は別に自分が尊重されたいわけでもなさそうだが。
しかし「言葉は記号なので、乱発すればインフレを起こす」というのは中々言い得て妙である。アリィー!アリィ見てるかー!
やはり愛という言葉で共有しているのが悪いのだろうか。しかしエロスとアガペーと分けた途端にどっちもありえないくらい薄っぺらく見える。愛はそれらを包括した言葉だから愛足り得るのかもしれない。
一貫して愛に向き合い続けてきたミスターラブこと谷川俊太郎先生は、実はこの問題について『沈黙のまわり』というエッセイである種の完答をしている。
愛について語るなどということは、本来不可能なことだと私は思う。愛なき者が愛について語れば、それは愚痴にすぎず、愛ある者が愛を語っても、それは讃歌にすぎない。おそらく本当の愛の中には、沈黙しか無く、また本当の愛は、沈黙の中にしか無いものであろう。
沈黙のまわり
つまり、「どうすれば『大切なひとりにしか言わないI love you』の密度を保ったままアガペーを成せるんですか?」の答えは「ム・リ(ボーボボ)」。降参です。
ちなみにこのエッセイはほとんど藤井風の核のようなことをドンピシャで言いまくっている。
人間は永遠に青春に生きてはいられない。若さの過剰を、愛の豊かさだと錯覚してすごすことの出来る時期は余りに短かい。私たちは、愛されぬことに苦しむよりも、愛せぬことにより多く苦しんでいるのである。
もう谷川エッセイから生まれた谷川太郎だろ、藤井風。
こうやって私の「好き」が微妙にそして偶然に重なり合っているのを見るのは面白いですね。
で、なんの話でしたっけ?愛のパラドクスの話ね。フェイト、答えは否だ。平等な愛などありはしない。だからほんとうの問いはこうだ。「決して届き得ない理想を追い続けることはいけないことなの?」
求めて 探して 見つけて 失ったけど
追いかけ続ける あの絵空事
――藤井風, やば。
その答えも既に――。
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