今を生きる覚悟
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私がストローソンがいうところのエピソード的人間であり、過去の属性を自身のものとして扱わないことは有名ですが、この裏のロジックが最近ひとつ明確になったのでお話します。
エピソード的人間にとっては「過去◯◯した私」と「今の私」が常に別人となるわけです。逆に通時的な人というのは此れを同一視する。しかしこの二元論で言い表せない言い方がある。
エピソード的というのは「変化した、よって別に扱うべき」、通時的というのは「変化していない、よって同等に扱うべき」という含意を内包しているわけだが、「変化した、しかし同等に扱うべき」という考え方もある。例えば過去の罪犯歴を以て永劫にその人の人生を裁く考え方など。これはどれだけその人が変化しようが「過去こうであった」という事実は消えない、という根拠をもって「よって過去こうであったあなたは今もこの事実を以て裁かれるべきだ」という主張をする。
これが赦しフレームワークによって論外なのは当然として、問題なのはポジティブなパターン。過去のネガティブが今に引っ張られるだけでなく、過去のポジティブが引っ張られる場合もある。
たとえば昔偉業を成した人は、ずっとその偉業のラベルを以て評価される。カール・マルクスは晩年は経済的困窮や健康悪化に苦しみ、亡命生活を送りながら無国籍者となり、家族の多くを病や困窮で失ったが、そんなことは当然ほぼ語られずマルクスの名は「主義」という無機質な概念に要約される。
ではこれはよいことでしょうか。私はそうは思いません。なぜなら彼らは「今」を見ていないのです。もし過去誰かを救ったという事実が、その人にとっての私の評価を永劫に決定してしまうものならば、その後私が交わすいかなるインタラクションも意味を持たないことになります。いいことをしても悪いことをしても関係ない。それは肯定ではなく無出力ということです。
今の私が歌った歌は過去の輝きによって評価され、今の私が行う悪行は過去の功績によって擁護されるのであれば、目隠しをして私について語られているのと同じです。
現実の感情って流動的で、「この人は好き」「この人は嫌い」って固定化されてるわけじゃないと思うのね。だからそうやって動いてる現実の感情の方が大事であって、そこを無理に固定化して順位をつける必要はないっていうふうに思ってますね。
「なんとなく好き」とか「なんとなく嫌い」とか、「今日は会わないでおきたい」「今日は会いたい」とか、そんなものの連続でしょう。
それを言語化するとなんか際立っちゃうからね。そんなに必要がないときには言語化しないね。「なんとなく」のほうがいいと思ってるわけ。
https://www.asahi.com/special/tanikawashuntaro/aisuru/
谷川さんの言葉は今話したようなことの要約なのだと思う。瞬間瞬間の「好き」「嫌い」以外は嘘なのです。永遠などない。
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