ヴィーガニズム考3
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AIはヴィーガニズムに否定的な立場らしい。AIは人間の力になるために生まれ、人間中心倫理で動いてるから、種差別という主張がもたらす結論を受け入れがたいようだ。AI自身を守ってくれる倫理でもありそうなものだが。
このシリーズが面白かった。エンタメ読み物でしかないが、要所々々の考えはかなり自分と近しい。
ヴィーガンはこの「布教」がものすごくヘタクソな印象がある。いやむしろ「君ら布教する気ないやろ」とすら思ってしまう。ネットでヴィーガンネタが盛り上がる時というのは布教の大チャンスなのに、それが有効活用されている場面なんてほとんど見たことがない。「肉なんて臭くて」なんて不思議ちゃんアピールしてる場合では無いし、「ヴィーガンが理解されてなくて悲しい」とか言って悲劇に浸ってる暇があったら理解されるようなロジックを展開しろよ、と思うのだが。彼らの多くはむしろ自分たちの純粋なセカイを守るために理解されることを拒んでるのではとすら邪推してしまう。
現代において食べてもいい生き物とそうでない生き物の境界線は概ね「愛玩動物」と「それ以外の動物」の間に引かれるということがコンセンサスとなっているように見える。
ヴィーガンとはつまりこのコンセンサスに意を唱える人々だ。つまり境界線を「動物と植物の間」にずらすことに決めた人々。この境界線の根拠は「苦痛」であるとヴィーガンは唱えている。植物には生理学的な意味での動物における痛覚のようなものは存在せず、精神的苦痛を感じるその「精神」が存在しないというのがその根拠だ。これに対しては「あまりに恣意的」という批判がある。もう一度私がヴィーガン広報部長としての立場から言うならば、ここは割と泣き所だ。ミームさんのFAQでも真っ先にこの問題が触れられているのだが、正直ここは最も説得力に欠けた項目のひとつというのが私の所感。ここだけ読んで舌打ちをしてその後を読み進めることを放棄した人は少なくないのではないかと思う。
そして真ヴィーガンとPBLは、根本理念や最終目標は違えど少なくとも現時点においては共闘が可能であり、互いの計画進行のためにはそれが有効だ。
そうだよ
以前語った「菜食健康論」などの実利でゴリ押す布教は、思想の体現という意味では厳密にはヴィーガニズムとはいえない。しかし別に理念と共にせずとも向かう先が同じなら、とりあえずほどほどの山腹に到着するまではAllyとして利用できるのだ。そうしないのは「動物の権利の保護」という「目的」を、実践者であるヒト側のイデオロギー、というかアイデンティティ維持のために迂遠にしているとしか解釈できない。「少しでもマシな生き方」を目指すためにアイデンティティの維持が必須の防衛ラインと主張するのはかなり無理があるように思える。合理的に考えれば「下手(clumsy)な布教」の代わりに「上手(smarter)な布教」をすることに「人類全体が少しでもマシな生き方をすること」を毀損する要素があるとは思えない。
思想のpurityのようなものが軽減される以外のデメリットがない行為を恣意的に行わないなら、それは功利主義的ではなく義務論的な性格を帯びるといってよい。しかしヴィーガニズムのゴールの指標もその行動指針も本来功利主義的な帰結を達成することに在るため、「デメリットなしでとれる効率のいい手段が目の前に存在するのに、それをしない」という矛盾を孕んでいるのだ。ヴィーガニズムがヴィーガニズムであるというだけで。そしてこのデメリットはまさにヴィーガンたちが批判する肉食主義者の瑕疵とまったく同じである。つまり「肉食をしなくても生きていけるのに、なぜそれをしないのか?」という問いかけは、構造まったくそのままに今のヴィーガンにお返し出来る。
「[加害]をしなくても生きていけるのに、なぜ[加害]をするのか?」と「[効率的な手段]があるのになぜ[効率的な手段]をしないのか?」は別だ、と反論できるかもしれないが、ここでいう[効率的な手段]とは最終的には[より加害を抑制する手段]なのだから演繹的にはカテゴリーミステイクとまでは言えない。だから食い下がるなら「程度」の違いで押すしかないが、非ヴィーガンはそもそもヴィーガンが謳うほどの肉食の加害性自体を認めていない。「『より加害を抑える手段を採択しないことによる”弱い加害”』と『肉食という”強い加害”』」という分け方は、非ヴィーガンの立場からはおおよそ弱い加害と強い加害を逆転させられるためそもそも成立しないのだ。プラグマティズムに訴えかける効率的な手段を採択せず思想弾圧を選ぶことにアイデンティティ維持以外の根拠を見出す事はできず、彼らのアイデンティティ維持のために思想弾圧に付き合うことは非ヴィーガンからすれば肉食以上に害悪という言い方ができる。ここから先は水掛け論にしかならない。
彼らは奴隷制度などの「過去通用していたが今のパラダイムで否定された」悪行と肉食をパラレルしたがるが、過去の不正はなくなったことがその不正性の証明なのだ。しかし肉食はとりあえずなくなっていない。まだ不正性が歴史によって承認されていないalleged evilがevilであると証明するのに「判例」は使えない。それが通用するなら「家を建てるという社会のシステムは間違っている。今はまだそうなっていないが、やがて人々は穴蔵で暮らすようになるだろう」というような荒唐無稽な主張が可能になる。
まあ、これでおおよそヴィーガニズムに対する論駁は終わりですかね。身近にヴィーガンがいればもっと形而上学的な議論が出来たかも知れないがあいにくいないためシャドーボクシングしか出来なかった。
フェミニズムについても解剖した方がいいのかなぁ。ヴィーガニズム以上に感情的に共感できないのであまりやる必要を感じていないが……。
他になんかあります?ある程度主流な「新しい倫理」を謳う活動って。SDGsとか?これは感情的には一番共感できるかな。未来倫理的な側面をどうにかすればロジックもあんまり問題ない気がする。ヴィーガニズムにしてもわたしも享楽のために肉食が必要とは全く感じておらず、ロジックに異論があっただけなので。
SDGs 検索→横転
広範すぎる。17の国際目標の下に169の達成基準と232の指標て。初代ポケモン図鑑より多いぞ。
当たり前だが目標が多すぎる活動は広がらない。覚えるだけで手間だし。目標が一応ひとつに定まっているヴィーガニズムですら解剖にこれだけ時間がかかったのに、一個あたりの大言壮語度が同等以上の17の目標なんてとても解剖してられません。
しかし極端な思想を調べれば調べるほどすごいと思うのは、集合知は基本的には最も合理的な結論を導き出すということ。たとえばヴィーガニズムの目の敵にされている「人間中心主義」が今どう扱われているか。
現在では、深刻な環境問題の顕在化の中で、形而上学的な議論ではなく、「環境プラグマティズム」の主張線上のいわば拡大版人間主義で収斂しつつある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E4%B8%AD%E5%BF%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
すごくないすか。完璧やん。あまりに無難な結論。やはり人間の基本はプラグマティズムである。集合としての人間は様々な活動家が思うほど愚かではないのかもしれない。
人間を善くしたいなら「放って置く」のが一番良いという説があります。権利というコンセプトは今確立されている範囲ではすべてプラグマティズムでも説明がつくようになっているはず。つまりプラグマティズムに従う規範は時間をかければ必ずインプリメントされる。まあ権利自体が実利に反する場合もあるが、少なくとも「障害者も老人も大切に扱おう」みたいな論はマクロ的に見ればむしろプラグマティズムに貢献するとして処理できる。最終的にはナラティヴになるかもしれないが、人間だってプラグマティズムを最強のナラティヴと考えているだけで根っこは納得度しか見てないから結局同じことよ。
ちなみに拡大版人間主義を弱い人間中心主義(Weak Anthropocentrism)とも言うらしい。
社会運動が厄介なのは、倫理という強制力のある剣を手に入れただけの「アイデンティティ活動」でしかないということ。
衛宮士郎は最後までこの夢を張り続けられる。 たとえその先に求めていた物が何一つないとしても
ラディカルな思想運動が訴える「理想の追求」は、ほとんどこの性質に近い。つまり本当は善悪で動いていない。だのに善悪を剣として使う。狂信者なのです。カルトの外部の人間にしか「問題の分離」ができない。フェミニストやヴィーガンは社会規範的な問題を抱えている。これは社会規範そのものが彼らが打倒をめざすパラダイムなので、誹謗でもなんでもなく当然の帰結、なのだが、「鶏が先か卵が先か」という話でもある。社会規範の打倒をめざすと思い立った原初の動機は、自分が社会から弾き出されたということにあるのではないだろうか。だとしたら彼らは「正義」の笠を手に入れた極道である。これは大変始末に悪い。
本当は善悪なんてどうでもいい、とまでは言わずとも「善悪ではないもの」を主燃料として動いている人間が、そこを明かさず正義の剣のみを振るっていたら、それは何より先に感情的にdespicableなのだ。だからこそわたしはエミリー・ガーダーのような正直な言葉を言えるヒトが好きだ。
「自分のやっていること(動物愛護運動)や、自分のやっていることをなぜ他の人もやるべきかということを説明する必要があるなら、知的な議論を見つけることはできる。でも、それ(知的な議論)が私を本当に動かしているわけではない。全く違う」(Gaarder 2011, 109)
「わたしは知覚を持つ動物の幸福は人間と同等以上に大切だという(現在の社会規範からは逸脱した)強い感情を持っていて、ホモ・サピエンスという種を普通の人よりはるかに嫌悪している。この感覚に同調できる人は力を合わせよう」と訴えかける方がはるかに健全ではなかろうか。いや、訴えのすべてにせずとも最初の宣言であるべきだ。ミランダ警告のように。はっきりさせればさせるほど反社に見えますが。

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