ヴィーガニズム考2
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ヴィーガンってペット飼うんだ。なんか意外だな。人間特権を捨てるなら動物を従えるというのは随分おかしな話に思えるが。
plants thoの反論は反論ではない
plants tho論法は最もよく見られるヴィーガニズム批判のひとつだが、それ故に回答も紋切り型である。つまり:
“みんな完璧じゃない.だがそんなことは最低限ビーガンになってから言ってくれ”―Mistro
「肉食」がそもそも絶対的に間違っているのだから、それを回避していない奴らが植物を食べることをどうこう言うのはおかしい、ということだ。
「あなたは、交通事故をゼロにはできないから、何人轢き殺しても同じだと考えるだろうか?」というような例もよく使われる。完璧ではなく少しでもマシな生き方を目指すのがヴィーガニズムの基本だ。
しかし完全にアポリティカルな立場からすると、これはほとんど論点ずらしな気がする。plants thoの主張は「肉食は悪くない」ではなく「植物はどうなんだ」なのだから、それに対して「meats tho」と返しているに過ぎず、お前だって論法にお前だって論法で返しているに等しい。万引き犯が100人殺したシリアルキラーを非難したとしても、万引き犯が正しくなるわけではない。
plants thoに対する論点ずらしでない”反論”とは、自分は小さな咎すら負っていないと主張すること、つまり「植物を食べる事には、何ひとつ、全く、未来永劫に倫理的問題はない」と断言する事以外ない筈なのだが、どういうわけかそう主張することに及び腰になっている人が多いように見受けられる。それが彼らも知っての通り、こんな反論は不可能だからである。
「植物を食べることに倫理的問題が伴う可能性は、現時点での科学的な見地からいってごくわずかだが、しかし完全に否定することは出来ない」と誠実に回答するなら、これは「反論」ではなく「応答」だ。だからこそこっちの方が筋が良いと個人的には思っているが、「応答」で止まるヴィーガンはかなり少ない。
plants thoの主張が「植物を食べるのだって倫理的問題がある可能性は否定できない。だから肉食も同じことだ」であるならばmeats thoでもいいかもしれないが、「植物を食べるのだって倫理的問題がある可能性は否定できない」で止まっている場合は、論点ずらしでない反論は不能に思える。実のところ、plants thoへの回答はほとんどの場合「だから肉食も同じことだ」まで勝手に補填した藁人形論法である。
つまり、plants thoに正しく「反論」することはできない。むしろ「応答」によって建設的な議論に持ち込むチャンスなのだ、が、『ダーウィン事変』でも表現されるようにヴィーガンはほとんどの場合「応答」を拒否する。
うんざりだ……。「赤信号は止まれ」だ。そんなこともわからないのか?
「うんざり」しているのです。だから手前の正しくない「meats tho」で処理する。plants thoを持ち出す人間は議論に値しないと決めつけ(predefine)ている。特に浅瀬の「反ヴィーガン」は、傍から見ていても議論の入口にも立たないようなただのトロールが多いので、感情的には同情できるし、コーピングメカニズムの一種とみなせるが、同時に正義のためのイデオロギーが滑り坂へ滑り落ちる最初の一歩でもある。
余談だが、明らかに英語圏発祥みたいな名称をしている癖に日本語圏以外での使用例がほぼ見られない。まったくないとは言わないが、日本語圏の方が支配的なtermであるらしい。Geminiすら知らなかった。まあ考哥.jpgのこととかを考えると珍しいことではないが。
やっぱり「深刻さは投機的かつ極めて低いと考えるのが合理的」ってところに合意できないんだよなぁ。どの生物がどんな痛みを感じているかを21世紀の科学が完全に(あるいはbeyond doubtで)解剖できているという主張が直感的にも歴史的にも受け入れがたい。ヴィーガニズムが普及し切れないのは真にアポリティカルな人間であればあるほどここを共有できないからな気がする。これはやはりエミリー・ガーダーの弁が一番わかりやすい。
「自分のやっていること(動物愛護運動)や、自分のやっていることをなぜ他の人もやるべきかということを説明する必要があるなら、知的な議論を見つけることはできる。でも、それ(知的な議論)が私を本当に動かしているわけではない。全く違う」(Gaarder 2011, 109)
ヴィーガニズムの熱心な活動家はほぼ間違いなくこの「知的な議論ではない動機」を共有している。それを共有していない人間には最後の最後の投機的な部分、つまり程度差はあれど「信仰」を必要とする部分を納得させられない。
で、VSヴィーガニズムを合わせると、ヴィーガンがやっているのはこのむしろ「知的な議論ではない動機」を共有せしめんという布教活動に見えるのです。それにエシカルであるとかラショナルというヴェールを被せているからややこしくなってる。彼らがヴィーガニズムを「普及」させるとき、それはキリスト教のビラなのか、奴隷解放宣言への署名書なのか、よくわからないのだ。
すべて必要なんですか?ヴィーガニズムにとって。ethicalでrationalでlogicalでmandatoryでなければならないのだろうか。派閥なるものがあるとしたらここらへんが分かれるのかも知れやせん。
ちなみに私はペスカタリアンなのでかなりややこしい立ち位置にいます。準菜食主義とも呼ばれるようだが、「完璧ではなくとも少しでもマシな生き方を」を掲げるヴィーガンにとってはミートイーターよりマシなんだろうか。どう分類されてもあまり良い気はしないが。
そう、いい気はしないんです。ヴィーガンとはアイデンティティの名前だ。仮にヴィーガンと呼ばれるべき要件を完全に満たす人間がいても、彼自身が己をヴィーガンと名乗ることを拒否すれば彼はヴィーガンではないだろう。わたしは摂食においてまでイデオロギーの闘争をしたくない。
人間が死ねばいいのではないか問題
AIについてこれと浅瀬的な議論をしたのだけど、回答は予想通りのものだったのだが、改めて言語化されるとやっぱりおかしい気がした。言語化されると反論が明確に思いつき始めるのでよいね。
まず前提として、少なくとも敬虔なヴィーガンが「人間が死ねばいい」とならないのは彼らの目標が「知覚のある生物の苦痛の最小化」にあるからだ。人間も知覚を持つ生物だからここに勘定される。そのうえでサピエンス愛護を強く拒絶するから、要するに「人間なんてキモくてしょうがないけど我々は差別主義者ではないので守ってやるよ」ということだ。
まあそうでない人もいるだろうけど、この際感情はどうでもよくて「知覚生物としての理由のみによってヒトを守る」という前提があればよい。
だとすると「苦痛の最小化」をどう定義するか?という話になるのだけど、一般には数と質のふたつで勘定されるはず。つまり:
A: 苦痛を感じる知覚の敏感度が1の生物を100匹殺す
B: 苦痛を感じる知覚の敏感度が100の生物を2匹殺す
この2つの場合はAの選択肢のほうが「よりマシ」ということになる、とAIには伺った。
だとすると「ヒト80億人を殺す」ことの質と量を換算して、これらを他の全生物の質と量のwell-beingの効用を比較して、天秤が最低でも釣り合わないといけない。
しかし動物は食物消費の年間だけで数百億~数千億匹以上が犠牲になってるのだから、数で釣り合うことはありえない。となれば質で釣り合うしかないが、ヒトの知覚は他生物と比べて特別大切にされるべきではないというのがヴィーガニズムの主張なのだから、これは自己矛盾ではないか!?いかが。
AIによる回答:権利論により回避可能、だが功利主義的なアプローチを維持するなら反論はほぼ不可能。
つまり「いかなる生物であっても(たとえヒトであれど)、いかなる理由があっても、生物を殺してはならない」という前提がなければやはり人間の全死がもっともアニマルライツに良いことになる。
しかし「いかなる理由があっても」となると、たとえば少数のマウスの犠牲によって数千万人のヒトを救えるような動物実験であっても認められないということになる。こんな思想を広範に認めさせることは相当難しいというか無理じゃなかろうか。逆にこの動物実験を肯定するなら、サピエンス愛護を否定する立場上、人間の全死がやはりもっとも奨励される結論になる。
これが現状最も筋が良いヴィーガニズム批判になりそうだが……あえてかばってみるか。
いくつか仮定した前提があるのでどこからか崩せばよいのだが、ヴィーガニズムについて調べれば調べるほど分かってきたことの一つとして彼らは別に「殺戮を止める」のが目的ではないというのがある。
彼らは負の功利主義を原則としており、数千億匹が死ぬのが必ずしも問題なのではなく、数千億匹が苦痛を感じることが問題なのだ。極端な話、いきなり苦痛を感じる一切の神経系が全生物からぱっと消滅すれば、それ以上ヴィーガニズムが達成すべき目標はなにもない。
ヴィーガニズムはそもそも自然淘汰のようなデフォルトの自然性自体を敵視しているから、苦痛の最小化のためには人間の「正しい介入」は必要という主張ができるかもしれない。ヒトが生きて正しく動物倫理を達成すれば、それは80億人を消した世界より苦痛の最小化が実現されているはずだ、と。
……いや~ないだろうな。人間嫌いだもんあいつら。
わたしのヴィーガニズムに対する態度は、批判とか承認というより「解剖」に近い。おそらく(ガーダーがいうところの「知的な議論ではない動機」の決定的欠如のために)永劫ヴィーガニズムを信仰することはないけれど、そのメカニズムは知りたいし、「知的な議論」には興味がある。
「動物の命と人間の命は同じ価値」というのは、少なくとも私が思う限り現状では「知的な議論ではない動機」がない人間に対してあまりに訴求力がない。アフリカの子供一人を助けることは、あなたの家族や大切な誰かを一人助けることに等しいのだという主張は、功利主義的・倫理的に正しくても人を動かせない。人を自発的に動かせないなら、「それ」を呑み込ませるには何らかの圧力による恐怖政治の体制を取るしかないが、それは義務論的な倫理に進化し得ないので、「アニマルライツについて考えているためにミートフリーマンデーのみ肉食を辞める人は、アニマルライツについて何も考えず健康目的のためだけに菜食主義をしている人よりも倫理的に正しい」とする義務論的なヴィーガニズムは破綻する。
人を動かすなら、なんでもいいから効用(メリット)を提示しないと。自身への危害がわかりやすい環境論的アプローチのがまだ筋が良いように思う。健康論で推すのが広範に一番良いけど。
テロルによって押し付けられた価値観を自由意志によって採択し直すことはまずないと思うが、効用によって採択したものを自発的に倫理に転換することはまだあり得ると思う。自分も覚えがあるけど、毎日菜食を続けていると確かに肉を食べることがグロテスクに思えてくる。ヴィーガニズムに一切共感してなくてもね。そういう不協和を利用するのはアリだ。よく言えばプラグマティック、露悪的に言えばブレインウォッシングなアプローチ。
だからVSヴィーガニズムで語ったように「菜食健康論」だけでひたすら押せば良いと思うのだが、シンプルに健康学的に無理筋なんだろうか。ベジタリアンは肉食者に比べて虚血性心疾患のリスクが22%低い一方、脳卒中のリスクは約20%高く、特に出血性脳卒中のリスクは34%高いらしい。こんなもんは自分にとって有利なデータとなるお好きな病気のリスクを取り上げるカードゲームになりそうだからあまり意味がない気もするけど。
あるいはヴィーガン食をありえないくらい美味くするというアプローチもなくはない。マクドナルドは明らかに不健康だが世界一売れているからね。難しいだろうが。みんな肉が大好きだから。そう、みんな肉が大好きなのだ。そうである限りは無理だな。私は肉そんな好きじゃないけど。
味覚快楽的アプローチで肉を超えられず、健康学的アプローチでは地中海食やペスカタリアンを超えられないなら、まあほとんど詰んでる気もしますね。ヴィーガニズムとしての主張を穏便化させるしかない。実際はあらゆる社会活動は過激化の一途をたどるので無理だと思うが。社会活動は風船なので、空気が絶えない限りはひたすら増長していく。どこかで大事件が起きて=破裂して急激に縮小することはあるが。
「よりマシ」をうたうヴィーガニズムだが、全人類がミートフリーマンデーだけ肉食を辞めるようになったことをパーティー開いてお祝いするとは到底思えないな。
どうせ都合のいいナラティヴを作るならフェイクを作ればいいのに、と思ったが、健康学的・環境的なことでフェイクを作ると学術的に論破されるから「ケアの倫理」という実体もデータもない故に反証可能性のないナラティヴを作ったのか。個人単位の効用が証明できない社会運動の最後の砦という感じで痛々しいものがある。
ヴィーガンの方々はこの辺にまで自覚的なのだろうか。芹沢さんフェイスで「ヴィーガニズムとは、フェイクから真実を生み出そうとする情熱そのものです」とか言われたら思わず着いていっちゃうかも。
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