vsヴィーガニズム
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ダーウィン事変を9巻まで読んだ。なんか『チ。』っぽい。テーマは全然違うんだけどやたら衒学的なあたりが……。
いちばんの収穫は「復讐」に関する部分でした。チャーリーは自分の両親を殺したオメラスに対して「代償を支払わせる」と言った。ルーシーは「それは復讐するってこと?」と聞く。しかしチャーリーは復讐という概念を理解しない。彼の説明では、それは応報感情ではなく:
大事なのはさ、ルーシー。これからのことだよ
はっきりとシグナルを出す必要がある。ボクや周囲の人間に危害を加えた場合、とんでもなく高いコストを支払わされるって。
そうすることで自分の周りの「安全」を確保できる、ということでした。
物は言いようという感じもするのだけど、たしかに復讐に関する応報感情という部分をうまくエスケープしていると思った。
ただ加害者が1ならその加害者を殺した時点で誰がシグナルを受け取るんだという感じもしますが。ギャングを相手取っているとかならともかく。今回はギャング相手に近いけど。
以下ヴィーガニズムに関しての思索ですが長い上支離滅裂です。
アニマルライツに関する論を見ていると、この漫画でもそうだけど、最終的には「出生が最もの悪」という結論に至っているようだ。つまり、ヴィーガニズムに従わない人間が行っている最大の加害とは、虐待でも殺害でもなく、産んで殖やしていることなのだと。利用するためだけに。
選択肢は「彼らを人工的な環境下で飼育するか」それとも「彼らを自然界で生かすか」ではない。正しくは「彼らを人工的な環境下で飼育するか」それとも「そもそも彼らに存在を与えないか」である。
https://web.archive.org/web/20220309041350/https://therealarg.blogspot.com/2019/02/VeganFAQ.html
以前「フェミニズムとアンチナタリズム」界隈の異様なproximityについて話したが、どうやらアニマルライツもアンチナタリズムと親和性があるらしい。どうも反出生主義がすべての親玉として道徳的な諸活動を取りまとめているように見えてきた。
どっかで論文とかないんかなぁ、動物愛護活動家とフェミニストそれぞれに反出生主義についてのアンケートを取ってほしい。できるだけ大規模に。私の予想だと一般人よりはるかに反出生シンパが多くなる気がしているのだけど。
Philosophical Veganのウィキでは、反出生主義がビーガンコミュニティでは一般集団より普遍的であるとされているらしいが、まあ統計的検証ではないので証拠にはならんでしょうね。ヴィーガン側のウィキならそれなりに肌感としての証明にはなるかもしれんが。
主張をざっくらばんにあらうと「苦しむ可能性のある生を新たに作り出すべきではない」ということなので、必然的に反出生シンパになるとは思うよね。(追記: ていうか筆者はモロに反出生主義だった。モロどころかそれ以上だった;そもそもはじめは反出生主義についてのブログだったらしい。(https://therealarg.blogspot.com/2019/12/thoughts-on-non-philosophical-anti-natalists.html))
つまり反出生主義に割と根本的に同意しないと、アニマルライツやフェミニズムに(エミリー・ガーダーが言う文脈で)根本的に同意することは難しい気がする。そしてわたしは反出生主義に根本的に同意しないので、これらを理解しないというわけだ。(宿儺的メタ認知)
万が一、相手の情動が不確かであっても、「よって苦痛を経験する可能性のあることを行ってもいい」とはならない。相手がヒトである場合、必ずしも行う必要があるわけではないうえ、相手が苦しむかどうかわからないがその可能性が十分考えられる場合「慎重を期してすべきではない(err on the side of caution)」という選択をするはずであり、不確かさを向こう見ずな行動の正当化の理由に使うことはないだろう。まして彼ら自身に何の利益もない行為であるなら、なおさらである。
これはダーウィン事変でもちょっと触れられていた要素なんだけど、私は結構ここに疑問を抱いている。
わたしは懐疑主義者だから、「植物に意識や知覚は100%存在しない」という主張には同意できない。植物はある意味で仲間内と「会話」する能力を持つし、生物学の分野なんて今まで何度も既知がひっくり返されてきたのだから、植物に新たに意識が発見される可能性がゼロとは思わない。
この前提を否定されるともう話は出来ないのだけど、この前提に乗っかってくれるならさっきの引用に戻ることが出来る。相手の情動が不確かであるとき、err on the side of cautionするのが正しいというのなら、人間は動物どころか一切の食物摂取をやめてとっとと全員餓死するのがもっとも「道徳的」ということになる。
下手をすると結構な割合のヴィーガンが本気でそう思っているのではないかという気もしています。デビットライスも「人間が全員死んで動物だけ生きればいいと心の何処かで思っている」って言ってたし。
彼らの主張だと人間がとにかく動物や環境に対して害だということなのだから、人間を全員殺せばいいじゃないですか。ここが一番聞きたかった部分なのだけど、さっきのヴィーガニズムFAQにはこの質問が載っていなかった。
特定の毛のない猿だけを過保護にするサピエンス愛護はその(動物愛護の)典型的な例といえる。
種差別的、愛護的精神に反対し、その相手が毛のない醜い有害な猿であろうとなかろうと、自身の好悪や利害に左右されず、あらゆる苦しみを経験しうる存在の搾取に反対し、不本意な苦しみを与えぬよう努めるのがビーガニズムである。
https://web.archive.org/web/20210516010930/https://therealarg.blogspot.com/p/aigo.html
この辺の明らかに不必要に苛烈な表現を見ると顕著にわかりやすいが、やはりアニマルライツの根本には_misanthropy_がある気がする、というより、あると断言してしまっても良い気がする。これはやはりエミリー・ガーダーの弁が一番わかりやすい。
「自分のやっていること(動物愛護運動)や、自分のやっていることをなぜ他の人もやるべきかということを説明する必要があるなら、知的な議論を見つけることはできる。でも、それ(知的な議論)が私を本当に動かしているわけではない。全く違う」(Gaarder 2011, 109)
だから反出生主義とも相性が良いんでしょうね。どこまでいっても根本には人間社会からのアウトキャストという性質がある気がする。
植物に外的な刺激に対する反応は認められても、動物に似た意識的感覚を持つと考えられる科学的根拠は一切存在していない。いかなる根拠も伴わない「かもしれない」だけでは、理性的な議論において意味を持ちえないし、すでに明確で、科学的に合意の得られている動物の感覚について考慮する必要性がないという主張の根拠にもなりえない。
こんな記述もあったけど、これはさっき彼ら自身が主張したerr on the side of cautionに反するのではないかと思う。クラゲや昆虫に意識があるかと植物に意識があるかはどちらも「わからない」わけで、確率によって棒を倒しているわけではないのでしょう? 1/6でハズレを引くサイコロは振らないが、1/100でハズレを引くサイコロなら振っていいという主張なのだろうか。その場合は彼らがさんざ言うところの「リスクを負ってでもサイコロを振らなければならない」理由が必要な筈なのだが、そこが書かれていない気がする。
考えられる反駁のひとつは「実践可能な範囲で、危害を最小化すること(Minimize Harm)」だ。つまり:
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選択肢A:動物を食べる(従来の食事)
- 危害:動物への甚大な苦痛(可能性が極めて高い)+ 植物の消費(可能性は低いがゼロではない)
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選択肢B:植物を食べる(ビーガン)
- 危害:植物の消費のみ(可能性は低いがゼロではない)
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選択肢C:全員餓死する
- 危害:全人類の甚大な苦痛と死(確実性100%)
「危害の最小化」の観点から見れば、選択肢Cは明らかに最も多くの危害を生むため、最も非倫理的な選択。選択肢AとBを比較すれば、苦しむ可能性が極めて高い存在への危害を排除できるBの方が、より危害が少ない合理的な選択となる。
これは一見すると筋が通っているが、行為を単純化しすぎていて定量を見ていないと思う。
さっきも言ったが、摂食それ自体が「危害」というハズレの目があるサイコロを振り続けることだ。それを肯定する理由に「人間の知覚もケアの対象」と持ち出すのなら、こういう主張が通る。
「じゃあ生存にギリギリ必要な量の植物だけを消費して生きるのが『実践可能な範囲での危害の最小化』ではないか」。
肉食を「生存やwell-beingに不必要な加害」とみなすのなら、食に享楽を見出す行為そのものがこのラインに抵触しうる。植物の意識の存在を100%否定できないなら、実践可能な危害の最小化とは生存に最低限必要な量の植物だけを食べて生きることだ。
それがクオリティ・オブ・ライフの毀損だというなら、肉食禁止がクオリティ・オブ・ライフの毀損ではないことを証明する必要がある。つまりどこまでを以てして「正当化可能な加害リスク」なのかの線引きが必要なのだけど、そこが最終的に目がいくつあるかもわからないサイコロに頼っているのであまり納得できないという感じなのだ。
あとこれは遡及的に責任を取る手段がなにもないというところも引っかかる。実は植物に意識がありましたー、となったとき、ヴィーガンは「私たちは最も危害の確率の低いサイコロを振っただけだ」といえば済むと思っているのだろうか。ヴィーガニズムは社会変革のために強制ともいえる活動を続けているのだから、6面危害のサイコロを振り続けた人間と、1000面危害(と思われたが実は6面危害だった)のサイコロを「みんなも振るように呼びかけた」人間では行為責任の重さは異なる。
AIと話してわたしの主張は以下のようにまとまった。
Minimal Harmの矛盾
ヴィーガンは菜食主義だが、菜食主義はヴィーガンではない。たとえば「アニマルライツなどどうでもいいが菜食が好きだから菜食主義をしている」人はヴィーガンではない。
ヴィーガンの目的は当然ヴィーガニズムの普及だ。しかし「Minimal Harm Principle」という功利的な帰結をうたうなら「ケアの倫理」という理念を納得させる必要はなく、科学的なデータに訴えてメリットを提示すればいい。菜食健康論を謳ったほうが効率的ということになる。
そうしない以上、つまり彼らは少しでも苦痛を減らすのが目的なのではなく、少しでも苦痛を減らすべきだという思想を築くことが目的なのだ。であるのに彼らは反論に対して自分たちの目的はMinimal Harm Principleという「結果」だという盾を使う。これは知的に誠実ではない。
要するにこういうコト:
・ヴィーガニズムは義務論的な「倫理」である。
・これに従えば、アニマルライツをケアせず菜食主義を行っている者は動機が善でないため「倫理的」ではなく、アニマルライツについて考えているためにミートフリーマンデーのみ肉食を辞める(逆に言えばそれ以外は肉食)である人の方がヴィーガニズム的に「倫理的」である。
・この場合、彼らが「結果」の盾を使うのは二重規範である。
・Minimal Harmという結果を真に重視するのであれば、誰にでもメリットがある「菜食健康論」などの実利を最も強力に推し進めるべきである。(義務論的な価値観は、共有されていない相手には全く響かないため) これが間違いなく「実践可能な範囲での危害の最小化」に最も近しい。
・「ケアの倫理」を最重視するヴィーガニズムは、実利を最重視する真のMinimal Harmと共存しない。Minimal Harmは動機ではなく結果のみを見るが、ヴィーガニズムは「倫理」であるがために結果を少なくとも意志よりも軽視するため。(ミートフリーマンデーの例により)
「ダーウィン事変」では「聖者でなければ凡人もシリアルキラーも同じだ、とはならない」という比喩が使われていたのだけど、何が「よりマシな生き方か」を決めるフレームワークが必要なのだけど、ヴィーガニズムはそれに功利主義を利用していて、しかし彼らの理念は義務論的で功利主義的ではない。だから正しくは、少なくとも原義的なヴィーガニズムが主張するところは「意志が善でなければ凡人もシリアルキラーも同じだ」ということなのだ。(毎日肉を食べる人とアンチアニマルライツな菜食主義者はヴィーガニズム倫理的に差異がない)
これはダーウィン事変で語られていた「この(ヴィーガンの)食事は”ヘルシー”であることではなくても”正しい”ことが大事なんだよね?」という主張を鵜呑みにしたうえでの話なので、実際のヴィーガンが「いや、アニマルライツなんてどうでもいいと思ってる菜食主義者の方がミートフリーマンデーだけの人より倫理的っすよ」と言ってきたら知らんけど。ただFAQには:
ビーガニズムの一般的な定義は「食品や衣服、その他いかなる目的のためであっても、動物に対するあらゆる搾取と残酷行為を、可能で実践できる限り排除する生き方」であって、必ずしも菜食主義者であることを要求しない。
とあるのでおおよそこの理解で合っていると思うが。
しかしこの定義だと、屁理屈的だが、「肉が美味すぎて食うのはやめられないけど、週に一回『動物の搾取をやめろ!』ってツイートしとくね」みたいな人もヴィーガニズムに沿って生きているということになるが、それでいいのだろうか。「可能で実践できる限り」の最低限度のラインみたいなのを引かないならそうなるけども。
ていうか「動物に対するあらゆる搾取と残酷行為を、可能で実践できる限り排除する生き方」という表現には理念への共感を必要とする箇所がないので、アニマルライツに心底興味がないただの健康マニアで毛皮嫌いの菜食主義者もヴィーガンになるのか?それはかなり直観に反するが。
個人感情的な嫌悪
どんな社会にも必ず正と負の側面がある。よりよい社会とは、このうち正の部分がどれだけ大きいかということに過ぎない。
社会をサイコロとするのであれば、強者とは当たりの面を引いたものに過ぎず、弱者とはハズレの面を引いただけだとも言える。
1から5まで正の面だとしても、6一つが負の面だとすれば必ず負を引くものが六人に一人はいる。
それでも多くの人が幸せであるのなら、社会はこのハズレの面を無視してしまう。
極道が許せないのはこの無視という行為なのだ。
これと同じだ。「私たちは最も危害の確率の低いサイコロを振っただけだ」で済まされるのなら、植物は取るに足らない確率のサイコロの面として無視されている。この無視は功利主義において正当化されるが、それ故にわたしは気に食わない。
我々は(自然な形での)存在や誕生は好ましいことであるという人類史上最大の勘違いを正していくことに、全力を注いでいかなければならない。
我々が幸福になれないのは、個体のウェルビーイングの観点からすれば、根本的に欠陥のある自然淘汰のシステムに原因があり、過去に遡ろうとも、反対にどれだけ物質的に豊かになろうとも、その拘束条件からは逃れることはできない。そのため、ロマンチック史観もホイッグ史観もピンカー的楽観主義もすべて誤りである
https://therealarg.blogspot.com/2019/02/blog-post_8.html
なるほど。自然淘汰を諸悪の根源と考えるのね。じゃあ谷川俊太郎とは相容れないな。良かった。安心してdisagreeできます。
ただ最初の投稿のデイヴィッド・ピアースのポストは面白い。なんか優生思想的でもあるが、イデオロギーになりふり構わず苦痛を最小化できる生き方を善とするのは割と賛成なのです。
私は、我々の苦痛と同様の苦しみを経験している知覚ある存在がいる限り、その苦痛は自分の痛みや愛する人の痛みと同じ優先度と緊急性で取り組まなければならないと主張する。
https://therealarg.blogspot.com/2017/10/blog-post.html
ワイトもそう思います。関連:24-09-07_104829
ただ「我々の苦痛と同様の苦しみ」も「知覚ある存在」も、定義することも発見することも(if not impossible)きわめて難しいし実現はそれ以上に困難なので畢竟力量不足という感じはする。このままだと理想を抱いて溺死するぞ。
いいだろう、確かに極端な痛みや心理的苦痛は、それが続く間は、人生の他の、問題を脇にやる緊急性と優先性がある。 しかしだから何だというのだ?悲惨なことが過ぎ去ったら、前と同じような生活に戻ればいいだけではないか?
https://therealarg.blogspot.com/2017/10/blog-post.html
ヘドニスティック・トランスヒューマニズムというらしい。快楽主義的超人間主義。
ほとんどのトランスヒューマニストの思想家は、平等主義リベラル優生学の一形態である「新しい優生学」を提唱している。
はえ~。優生学にもとうとうそんなものが出てきているのか。
ちなみにGeminiくんは新しい優生学にもデザイナーベイビーにも反対らしい。Geminiが反対している思想はだいたい世間平均的に反対されているので、まあそういうことでしょうね。
ただ「ダーウィン事変」のオメラス的な考えとは食い合わせが悪いようだが。
「自然」という概念全体が人間とは別の外部の存在であるという考え方は、ごく最近の西洋の現象なので、自然を敵として捉える枠組みを、歴史的に限定された視点であり、人間として真実や目的を見つけるのに役立たないと批判することもできます。
https://www.reddit.com/r/askphilosophy/comments/qbsmit/are_there_any_philosophical_arguments_against/?tl=ja
そうだよ
言語化されて分かったが、アンチナタリズムにしてもアニマルライツにしても共通して敵視しているのが「自然」なんですね。自然のなりゆきではこうプログラミングされている、を尽く悪としていく。これは養老孟司や谷川俊太郎的な哲学ときわめてきわめて食い合わせが悪いのでわたしにはとうてい受け容れられない、というのが一番パーソナルで一番誠実な帰結かもしれない。
道徳は必ずしも自然と一致する必要はないけど、自然であることが即ち道徳的に誤っているわけでは絶対にない。ヒュームもいまごろ泣いているよ。ニュアンスというのはいつだってオミットされて、研いだナイフにされていくものだ。
アメリカは文化の坩堝というが、遠目に見ている分には楽しくてもシンプリシティを重視するわたくしとしてはやはりあまり関わりたくない文化圏ですね。
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