ステルスリープ
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
とくに人文科学系の学術論文を読んでいるとよく思うが、論理が飛躍しない人などおらず、論理的と呼ばれる人は「論理をステルスに飛躍させるのがうまい」のではないかという気がしてきた。
そもそも「飛躍(leap)」と「段階(step)」の差異は程度問題でしかない。階段を一段ずつ降りるか、あるいは三段飛ばしで降りるかの違いなのだ。「論理」とはここに「階段は一段ずつ降りなければならない」というルールを取り決めたシステムであり、そのこころは階段はその上に今立っている人間にしか見えない硝子の階段だからということになる。
一般に「論理の飛躍だ」と指摘されるような論理展開は、相当に段階をすっ飛ばしている。ステルスな飛躍とはこのすっ飛ばしがわかりにくい、というより注意を払われにくい方法で飛ばしている。手品の仕組みと同じで、フォーカスされたくないところから「見られてもいい」場所に焦点を誘導し、その間に階段をすっ飛ばす。証明すべき前提を巧妙に覆い隠し、気付いた時には堅牢に見える。
その例を知りたければひろゆきのディベート動画でも見るのが一番わかりやすいだろう。他サイトの例を出すとこういうのがある:
論理の飛躍とは、多くの場合、前提の不足だと言えそうです。どんな結論にも2つ以上の前提があります。逆に、1つの前提からはどんな結論も導き出せません。
(…)
「夫婦別姓は、明治31(1898)年に導入されたから、伝統ではない。」という反論についても考えてみましょう。一見とても、説得力があるように思えますが、どうでしょうか。
前提Ⅰ:「(すべての場合において)明治31(1898)年(以後)に生まれた文化は伝統ではない」
前提Ⅱ:「夫婦別姓は明治31(1898)年に導入された。」
結論Ⅰ:「夫婦別姓は伝統ではない。」
前提Ⅱは調べればすぐに真偽が分かるでしょうが、前提Ⅰについては簡単に真偽を判定できそうにありません。しかし、この前提は明示されていないので、一見すると反対の余地がない意見のように見えるのです。
つまり「真偽を容易に判定できる、真の前提」を隠れ蓑にして「簡単に真偽を判定できない、未証明の前提の証明」をすっ飛ばすのだ。
このレトリックはとて~もよく使われる。有り体に言ってアナロジーが持ち出される時はたいていこれだ。「誰が見ても明らか(obvious)な事例」をスケープゴートに使うのだ。ゴドウィン点なんて言葉が作られるくらいヒトラーが槍玉に挙げられるのも彼が便利な身代わりだからだ。
「あからさまな事例」が持ち出された時はすぐさま「もうひとつの前提」を探した方が良い。この「凝」さえ気を付けていれば少なくとも一発KOは避けられるだろう。
情動はロジカルであろうとする思考を常に特定の結論へ誘導する。論理的思考を以てしてもこれに抗う事はできず、傍目から操られていることがわからないようなポーカーフェイスになれるだけだ。
議論に対して「感情的だ」と言われる時は「ほんとはババ持ってるんだろ?」という指摘を受けているということで、ロジックとは「ババを持っていることがバレにくくなる(あるいは疑われにくくなる)」能力にすぎない。
Comments ( 0 )
No comments yet.