理想の末路
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優しい世界
世界平和とカーニバル・ファンタズムが好きです。でもランサー死ネタはあんまり好きじゃない。わたしも人の亡くなるお話は嫌いなんです。
ティカサー……これもしかしてFGOも履修せんとあかん?結局。エロ同人で見たことがありすぎる顔ぶれが並んでおります。

すごすぎる

うーん、野菜か……。
プロットが本当に本当によくわからなくなってきた。チャプター2くらいまでは頑張れますけど……どうまとめるんだよこれマジで。2x2も控えてるってのに。辻褄合わせが出来る気があまりしていません。

どういう人生?
やはり英霊アイはヒカキンになってもピカソになっても救われないという確信がある。
でもダーガーになれれば救われる気がしたんだ。
他人からどう思われるかがどうでも良くなりすぎて人生にあらゆる規範がなくなってきている。
他人の意見には興味あるんだけど、それはなんていうか……「どう思われるか」とは別の興味なんだよな。無限の猿が出力した文章であってもかまわないわけです、思索の肥やしになりさえすれば。
幸せアピールをする人は実は満たされていない、みたいなのはよく聞くけど、最近ほんまにそうだなと思う。幸せアピールっていうか、なんか、何かを持っていることをアピールすること自体が、こう、いたたまれない行為なんです。富にせよ恋人にせよ何にせよ。in氏のような晴耕雨読の人間を見ると尚更そう思う。知足する者なにごとも自慢せず。
でも「ママー、みてみてー!」って言ってクレヨンを塗りたくったキャンバスを持ってくる子供をよこしまとは言えません。愛に飢えている。
オマエは寂しかっただけだ!
でも、それの何が悪い……?
ソフィア
人は、孤独を享受できるスキルも含めて、「出逢い」によってしか救われず、しかしその出逢いとは徹頭徹尾「運命」に左右されているため、人生は徹底して運ゲーになる。人生は考え方次第だが、その考え方を形成するのもまた「出来事(イベント)」なのだ。イベントがもたらす不幸に抗うための考え方を養うのにfortunateなイベントが必要になる。服を買いに行く服がない状態。
運命に抗うための力を得るために運命が必要になる。人をブランクスレートと置くならこういう帰結にしかならない。
よく世界のせいにすることを現実逃避というが、自己責任にすることこそが現実から目を背けていると思う。「ただの運」だと困るから、納得出来ないから、どうにか責任の所在を明確にしようとした果てが自己責任論でしょう。身も蓋も無い現実は「ただの運」なのだ。紛争で死んだ子供は運が悪かっただけ。その地に生まれ、その時その場所にいただけ。
「あなたが不幸なのは運が悪かっただけ」と言われてしまったら、あまりにどうしようもないから、それなら「あなたが不幸なのはあなたの能力不足のせい」と言われた方が「じゃあ努力して能力を上げれば幸福になれる」という幻想を抱けるのだ。「どうしようもない」という現実が怖くて、たとえ偽りでも「どうしようもある」理由を築き上げた方が楽なのだ。これを現実逃避と言わずしてなんと言おう。被投性の観点からいえば我々はあまりに己の人生に対して責任がない。
ただ「運」を解体することはできる。ようするに「あなたのせいじゃない」というだけで、「運」の正体は社会構築の不備であったり、人類史の尻拭いであったりする。より大きな主体に目を向けて改善を図ることを促進するという意味で、ほとんどのことは社会のせいにした方がよいのだ。
全人類魔法少女ノなんたらやってて本当に苦しい。意地でもやらん。やった方が(DRITHdevへのインスピレーション的にも)100%良いと知りながらも。
ちょ、これだけ教えてくれん?登場人物はほんとうに女性のみですか?わたくし記憶にある限りだと「女性しか登場しないゲーム」を楽しめた経験が一度も無いんだけど。物語の華は”””男”””だろうが・・・!スーダンが狛枝なしで回るか!?
あとタウニーとガイの件で顕著だったけど、少なくとも私は女相手の方がフラストレーションに倍率がかかるっぽく、イライラしやすくなると思う。終里赤音とか伊藤誠より嫌いやし。レムも嫌いやし。
そもそも女しか出ないって縛りはだいたい「疑似男」を産むだけなんだよな。どうせいるんでしょ、魔法少女なんたらにも。男みたいな言動の奴が。逆は起きないんですよ。スターダストクルセイダースに「女みたいな男」はいないでしょ?
なんとかまのさばを酸っぱい葡萄にしようとしています。でも本当の問題は女しかいないことではなく、もっと核の部分を信用しきれていない事がある。『ぬきたし2』が絶賛される世界の「大衆の評価」を私はもはや信頼できない。
この手のゲームはデベロッパーの哲学との一騎打ちだ。マッチングが失敗するとゲームはまっっっっったく楽しめないだろう。そもそもV3のエンディングが(少なくとも初期は)大不評だったのが「世間」ですから、やはり信用出来ない。自分でやるまでは。
ふばなら化してきている恐れがある。
私を理解してくれる友人に恵まれているので理解のない他人は必要ないんやわ〜〜
他人には無理に付き合ってもらわなくていいし(そりゃ納得の上で付き合ってもらえたら嬉しいけどさ)、私の事は私だけが絶対に裏切らないので、いつまでも私の為だけに私があればいいと思う
ふなばら
わたしは確かに「これではダメだ」と非難しました。それがわたしの信念であり、我が高校の教頭先生の信念でもあった。先生曰く:自分と価値観が違う人間の方が話していて面白い。
しかし今英霊アイが成り果てたものはふなばらではないか? わたしももはや他人を必要としていない。それはふなばらイズムであるところの「わたしは一切他人に譲らない、わたしに納得する人間だけがいればよい、私の為だけに私があればいい」と同じではないか?
ふなばらこそがわたしにとってのアーチャーなのかもしれない。あいつの言い分はほとんどが正しかったけど……どうも、何かを忘れていると思った。
私が他人を見る時「私と同じものを好きか」は問題にならず「その人が何を肯定しないか」が重要です。
ふなばら
本当にそうだろうか。わたしが……高校でひとりぼっちだった時、はじめての友達とつなげてくれたのは「何を肯定しないか」ではなかったよ。
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