アーク理論死去
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
アーク理論はなぜ機能しないのか。
好きだとかファンだとか言われていたのに、その人が”成長”して別の人間を見つけてあっさり去っていくことへの恐怖について。
私は今まで特に考えもなしに、そういう帰結になったらその人にとっての自分の存在はすべて「無意味」と化すものと思っていた。
しかし、自分の立場になって考えてみると違う。昔好きだったがなんとなく熱が冷めてもうめっきり消費しなくなったみたいなコンテンツや存在はたくさんあるが、それらが自分の人生の構成物において一切のロールを廃したとは思わない、むしろ溶け込んで一部として馴染みきっているのではなかろうか。
つまり、マンガにおける「◯◯編(arc)」のような形で、「過去だが無意味ではない」、閉じた物語だが確かな物語として彼彼女らの人生の中で息づく筈なのです。
今エッグヘッド編やってるからってアラバスタ編が無意味になるわけじゃないでしょ。暗黒大陸編やってるからってグリードアイランド編が消滅するわけじゃないでしょ。消滅しないんです。不滅なんです、人と人が一度築いた関係というのは。
「過去になっても不滅」。これがアーク理論のコアです。
24-08-01_2024-08-02
これは「廻る依存と孤独について」の応用によって論破されるわけです。
問題となっているのは去られる側の不安なのに、アーク理論は去る側の気持ちを再定義することで解決できると思っている。
つまり、「AにとってBが不滅だとしても、それはA側の実感の話であって、Bは実感を得ない」ということ。実感を得ているのは相手側だけで、実感は論理によっては伝播し得ないため、アーク理論は成り立たないのです。
Aが実際に見放しているからBが傷ついている、みたいな因果関係を考えるのをまずやめた方が良い。不安とは霧であって実体がないのだ。Aが持つsenseの上での真実はもはや関係がなく、Bが「あいつは俺を見放している」という不安を覚えれば、”Aが実際どう思っているか”より”BがAがどう思っていると思っているか”が優勢になるのです。Bはまったく単独で不安の生成を成功させている。Bの実感が変わらない限りは、Aがどうしようと関係がない。
アーク理論は客観的な「実際」を定義しようとしたから失敗した。失敗したというか、理論として成立していても万人に実践的でない。「あいつは俺を見放した、俺の存在価値はもうおしまいだ」という状態になっている人間に方舟を持ってきても乗ってくれないのだ。もう少し安定した精神状態の人なら乗ってくれるかも知れないが、それはもはや方舟の救済対象ではない。もっとも救うべき人を救えない理論は役立たない。
だいいち、アーク理論を受け容れたとしても「捨てられたぬいぐるみ」になることは結局避けられない。捨てられた後も主人の想い出の中で生きられるのだからぬいぐるみも幸せだ、なんていうのは捨てる側のエゴだ。みにくくしがみついてでもずっと一緒にいたかったかもしれない。
この「実感の非対称性」と「捨てられたぬいぐるみ理論」によって、わたしのabandonment issuesは復活したのだ……。
どうすればいいんすかこれ? 言いたいのは、BがAutomatic Anxiety Generatorを確立したのはもちろん無からではなく、AAGを作った犯人がいるからです。ひとたび火がつけば火は勝手に燃え広がるが、そのはじめの火を生むには誰かがそのようにセッティングしなければならない。AAGを作ったヤツが責任取れよと思わざるを得ない。
AIに相談すると、UNO reverse cardを叩きつけろと言ってきた。荒唐無稽だと思ったが、よく考えると妙手かもしれない。つまりアークにされる前にアークにしろってことでしょ?「捨てられた」というナラティヴを「捨てた」というナラティヴに転換してしまえばいいという提案。どうせどっちの物語も虚構なんだから好きに編集していい。しかしこれは結局暗黒森林を奨励するだけでは……。
いまのところAAGをメタ認知するくらいしか有効な対処法がないが、そもそもこれがbeneficialかどうかも疑わしいと思っている。The relation between event processing and the duration of emotional experienceという論文によればネガティヴなことに思い耽るほどその効果時間は長くなってしまう。別の論文でも、怒りや悲しみをサンドバッグや愚痴などで「発散」する方向に持っていくと悪化するという研究結果が出ていた。緊急回避的なメタ認知は、ハイエネルギーな怒りには効くがローエネルギーな悲しみには効かないんじゃないかと思っている。メタ認知からの瞑想とかなら回避はできるけど、それは結局瞑想が効いてるだけだし。動乱状態から「瞑想をやるぞ」という気持ちにうつるまでのブリッジとして利用するしかない。
悲しみは、風邪のように「治す」ものではなく、嵐のように「過ぎ去るのを待つ」側面が強い感情です。焦らず、そのプロセスをただ経過させてあげる時間が必要です。
身も蓋もねえ。方舟は沈み、時薬が良い感じに砂を均してくれるのを待つしかない、あまりに無力。
やはり我々が能動的にできるwell-being保護のアクションはエンカウントを避ける努力くらいしかないのではないかと思う。そしてエンカウントを避けるならば人間関係を徹底的に避けるべきということになる、事実「すべての悩みは対人関係の悩みである」とアドラーは言ったし、なんならわたしはしばらくこれを実践して非常に安定していた。
独りが楽しい、というとやや語弊があるが、独りが一番平穏なんです。安穏なんです。
25-08-15_185643
だからこそ「人間関係こそが幸福の答えだ」というハーバード大学の75年を横断した研究結果との認知的不協和がある。もちろん「良質な人間関係こそが」ということなんだろうけど、人間関係の良し悪しなんてとてもはっきり定義できるようなものじゃないし、トゥルースコットマンじみている気がしなくもない。それともまたぞろブルックス理論で「幸福の答え(※なお、more happinessとless unhappinessは別の概念とする)」みたいな話なんだろうか。
あと結局人間関係も「資産」のひとつであり、かつこの資産は生まれ持った環境による要素が大いにあるのはもちろんのこと、その後もほぼ「投げつけられるもの」が9割で、自ら選んで作っていける人間関係なんてほとんど無いので、絶望にある人をさらに絶望に叩きつけるだけな気がする。
我々が変えられる人間関係は1割で、1割をフル活用しても9割の部分が終わっている場合はどうしようもない。だから我々が打倒すべきはむしろハーバード大学の75年の研究だ。ケチをつけよう。時代も変わってるし、そもそも75年の追跡ってなんだよって感じもあるし、良い人間関係ってなんだよって話もあるし。
クリストファー・ナイトのような希望の星はあります。
我々は人生に何を求めているのでしょう。充足感、自由、それとも幸福の追求でしょうか。ナイトはおそらく単純に、しかも心の底から、他人と一緒にいることが嫌で、森の中なら充足感を得られると考えたのでしょう。そうした暮らしをいつまで続けられるかはわからなかったとしても、彼はそこで探していたものを見つけたのです。冬の寒さは厳しくとも、彼は満たされた気持ちになり、喜びを感じていました。
少なくとも27年は人間関係などなくとも幸福でいられるわけだ。意志さえあれば。
実存が本質に先立つのならハーバードを蹴っ飛ばすしか無い。
なんでもないさ そうさ
いつだって世界はでたらめだ
後悔など蹴散らせ 頑なまで
TOXIC BOY deterame remix
記事の感想を伝えられます。
感想レターを書く
定型文を選択
スタンプを選択