アパシー考:追記余談ー生きる挙動は存在するか
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[!note]
前回までのあらすじ:アパシー考n回目
living behaviourについてですが、単純に「意味が解明されていない」だけで無意味なわけではないのではないでしょうか。
たとえば我々はなぜ「あくび」をするか知らない。なぜ夢を見るか知らない。知らない事はたくさんある。ケンケンパや竹馬ごっこにも成長過程で必要な意味があって行っているのかも知れない。
これは割と説得力があると言える気がする。なぜなら子どもが「遊ぶ」というbehaviourは普遍的だからだ。おそらく縄文時代にさえあったものだろう。それが行動原理として脈々と生き残っているということは、もちろん意味があるのだ。
狼の子どもが遊ぶのは狩りの練習みたいな見方もあるが、あらゆる享楽も社会生物としてより長く生き残るために必要な行為ということで説明がつく気がする。
つまり、ウォーコップが論ずるように「カモシカが虎を見て逃げる行為」と「ケンケンパ」に意味上の差があるというのは説得力に欠ける気がしてきている。
「生きた行動」は「無・合理的な行動」であると彼は言う。この場合で言えば「体を前のめりにしなければならないほど途方もなく大股を踏み出す歩き方」も「体を四方八方に振り動かしながら不規則な跳ね上がるような歩き方」も、どちらも決して「合理的」な行動ではない。そういう歩き方をしても早く歩けるわけではないし誰かからの賞賛が得られるわけでもない。それなのに彼はそういう積極的な価値とは全く無関係にただ「喜びにあふれて」そうした変な歩き方をしているのである。
これはウォーコップ評の記述だが、このあたりわかりやすい。stridingを「喜びの表現」 のみ に帰属するとしているが、マッチョイズムの誇示という見方もできるのだ。そしてその場合、これは合理性を帯びる。なんなら「喜びにあふれて」そうして変な歩き方をしているとしても社会性上の意味を帯びさせる事はできるだろう。だとすればこれら「無意味な歩き方」や「無意味な遊び」は社会的孤立を避けるというdeath-avoiding behaviourと見做すこともできる。つまりliving behaviourとはindirect/long-term death-avoiding behaviourにすぎない。
すべての行動が防衛的であると言い切る用意をわれわれが持たない限り、われわれは「生きている(living)」という言葉に、単に「死んでいない(not-dead)」によってはおおい尽くせない何らかの余分の意味を認めざるを得なくなる。
もとからここが疑問だった。「すべての行動が防衛的であると言い切る用意をわれわれが持たない限り~」とあるが、よくよく見るとこれは「存在が証明されていないものがひとつでもあるのなら、それは存在していると結論づける」というめちゃくちゃな論法だ。「すべての行動が防衛的であると言い切る用意をもつ」というのは、「防衛的ではない行動はひとつもない」という証明を要求している。実際の所は、「防衛的ではない」とわかっている行動すらひとつもないのだ。つまり、「余分の意味」を認めざるを得なくなる時とは、「防衛的ではない行動」がひとつでも存在する時であって、しかしそれは存在しない。
「何らかの余分の意味の可能性」ならわかるけど、グレーゾーンがあるのにむりやり一方に押し込んでるわけでしょ。
要するにウォーコップの議論は「ケンケンパや大股歩きには生存のための意味や合理性がない」という前提に立脚していて、それはおそらく間違っている。意味や合理性を意識していないという方が正しい。ウォーコップのいう防衛は「意識的な防衛」に絞られているのだ。
しかぁし!脳科学者いわく、人の行動を決定するのは意識より無意識の力の方が圧倒的に大きいという。つまり、「生きている(living)」という言葉に、単に「死んでいない(not-dead)」によってはおおい尽くせない何らかの余分の意味を認める必要はありません!!意識的な防衛と無意識的な防衛があるだけです。
思えば……( https://youtu.be/nOd0Xg_GBDw?si=lIjUrKWOtnRhhtx6&t=122 )長らくAIには芸術は創造できないとされていました。唯一奪われないフロンティアだと考えられていました。しかし今はどうでしょうか。LLMはチューリングテストを8割突破し、AIの絵画が権威ある芸術コンテストで優勝し、AIの音楽がYouTubeで1000万再生されています。ブラインドを下ろせば人はAIの芸術と人の芸術をこれっぽっちも区別出来ません。これはつまり、芸術とは合理で説明出来ないliving-behaviourそのものと思われていたのが、パターン認識と単純計算で模倣できるアクトにすぎないと嘲笑われた形になるわけです。わたしの直感としてはすべてそうなります、今後。
アリの集団は仲間を向こう岸に渡すために自らの命を捨てて橋になるという行動を見せることがあるそうです。自爆を伴うテロルすらそんなふうに説明されてしまうかもしれません。ルオジーの気分がわかるね。面壁者になるとは合理では説明がつかないbehaviourを見つけることだ。できるわけがない、ジャイロ!!できるわけが……

( ゚д゚)ハッ!
これliving behaviour? これだろ。これをどう見たってdeath-avoiding behaviourと見做すことは出来ない。ソフォンを混乱させる唯一の術。
答えはいつもその手に……。
[!TLDR]
生きる挙動とは「倒錯した変態行為」であり、私ははじめから常にそれを求めていた。
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