25-11-24_182007
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**魔境(まきょう)**とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。
臨済は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えている。これは、瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った結果「自分は優れた人間だ」と思い込んでしまい、エゴが肥大してしまうのを防ぐ、すなわち魔境に入ってしまう状態を防ぐための教えだとされている。
はえ~~~~~~~~~~!!!!!!!
Geminiに教えてもらった。小池龍之介も魔境にハマったらしい。漏れって”魔境”なんかなぁ?🤔
「漏れって魔境なんかなぁ?」という思考自体が魔境的だろという話もある。あるいはそう疑えることは魔境的ではない証左という見方もある。
エゴの肥大とはなんでしょうね、しかし。簡単なようで難しいと思うぜおれは。「自分のことしか考えていない」みたいな定義のエゴだと、それを極限まで矮小化させると何が生まれるかというと衛宮切嗣ですから。60億のために家族2人を殺せる人間。
ただ、そもそも悟りがどうとかエゴがどうとか考えていること自体がエゴでしかないよね。私個人としてはこのへんはかなりどうでもいい。悟りたいとも思わないしエゴをどうこうしたいとも思わない。
誰かをラベルに押し込んだり、自分をラベルにあわせてmoldしたりする行為はよくないと思います。人はひたすら自分や誰かを「定義」したがるが、わたしは自分を定義したくないしするべきでないと思っている。不変たるものなど何もなく、人は良い部分も悪い部分も変わっていく。何者でもなく何者にもなれない個人というエゴが、蠢きながら答えを探す過程そのものがうつくしいんじゃないですか。
簡単じゃないかもね
でも難しくはない
迷いながら探すの
それはみんな同じ
[燃えよ, Fujii kaze]
Gemini3と思想論議をしたけど、敗北主義者すぎてかなりイライラさせられた。わたしは常にbutを考えているのにこいつはすぐにピリオドを打ちたがる。AIには王泥喜法介の精神がわからんのか!!あるいは七海でもよい。
あのね…『信じる事』と『疑う事』って、きっと反対の意味じゃないと思うんだ。
疑いもするけど…それでも信じたい。その先にあるのが『信じる』って気持ちなんだよ。
だって…疑う余地のないハッキリしている事なら、信じる必要だってないでしょ?
誰かを信じる為にはね…『疑う』って事を乗り越えなきゃいけないんだよ。
『疑う』事を放棄した『信じる』なんて…そんなのただの嘘っぱちだよ。
この真逆、つまり「疑うために信じる」ことを逆七海理論と言いたい。わたしはアパシーの力を論じ、体系化し、信じているが、これもすべていつかアパシーよ打ち破られてくれと思ってこそのこと。自身がマック信者にもかかわらず山岡さんに「きさまマック信者だな?」と食って掛かった藤村さんと同じ気持ちです。あるいは衛宮士郎を嫌うエミヤです。エミヤがあれだけ長々自分語りをしたのは士郎に打ち破られることを期待していたのだ。もちろん生半可な答えでは納得しないし手を抜く気もなかっただろうが……そういうアンビバレンツな必死さがあるのです、人間には。
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