アパシー考n回目
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「無気力とは何か」について何度か論じてきましたが、脳科学的には「左前頭前野と右前頭前野が両方とも不活発な状態」らしい。
左前頭前野(PFC):この領域は「接近」行動に関連している。目標に向かって行動する時、報酬を求める時、あるいは熱意や喜びを感じる時に活性化する。「怒り」を覚えている時もこっちが活性化する。
右前頭前野(PFC):この領域は「回避」行動に関連している。脅威を感知する時、恐怖や嫌悪、不安を感じる時、あるいは何かから離れようとする時に活性化する。
幸福と不幸は別であるとハーバード大学のブルックスが語っておりますが、ようするにアパシーとは「幸福も不幸もない状態」ですね。吉良吉影かよ。
一見すると左ON右OFFが最高状態に見えるが、「怒り」とassociateしている以上そうは言い切れない。
重要なのはどちらか決めなければなりません。あなたにとって理想の人生とは、「不安や恐れがない状態」か?「熱意や喜びを覚えている状態」か?両方は追えません。ヒトの脳は複雑だが単純で、マルチタスクを処理できないのです。
「生きる理由」を提供してくれるのは左だが、「死ぬ理由」を減らしてくれるのは右だ。ここで考えるべきは、どちらが重要か、ということです。私は「死ぬ理由を減らす」方が大事だと思う。なぜか?
たとえば「生きる理由1 / 死ぬ理由1」の状態を考えてみましょう。生きる理由は「家族のため」とか「夢を叶えたい」とか、なんでもいいです。ではここで死ぬ理由を「末期がんの苦痛」としましょう。彼は死にますか? 死んでもおかしくはないよね。まったく。ひとつの苦痛は生の喜びを塗り替えるのです。
では「生きる理由0 / 死ぬ理由0」を考えてみましょう。彼は死にますか?死にませんよね。
「末期がん」を持ち出すのはスケールが違いすぎてズルではないか、という声もあるでしょう。では逆に聞きますが、「生きる理由」で末期がんの苦痛を塗り替えられるほどの「熱意や喜び」があるでしょうか?私はないと思う。少なくとも「1」では到底匹敵できない。元来明るくポジティブな性格で「がんなんかに絶対負けない!」と意気込んでいた患者が、長く続く闘病生活と抗がん剤の副作用でどんどん衰弱していって最終的に「早く楽になりたい」とこぼす所を何度も目にしてきました。
そもそも人間はネガティブな感情の方が強く感じやすいのです。(ネガティビティ・バイアス)倍率が均等でない以上、ネガティブに関与する「死ぬ理由」を減らす方に集中した方が絶対に効率的だ。
しかし我が師、谷川俊太郎はこう語る。
ウォーコップというイギリスの哲学者は、生きることを「生きる挙動:living behaviour」と「死を回避する挙動:death-avoiding behaviour」の二つに分けています。僕には、現代人の行動のほとんどは死を回避する挙動ばかりに見える。「生きる挙動」というのは内部からわいてくるエネルギーみたいなもので、こっちのほうが大事だと思う。
ただこのWauchopeという「イギリスの哲学者」について、どう検索してもあまりにも情報がない。『ものの考え方について』という本を書いたという記述もインターネットにあるが、そんな本はどこにも見当たらない。
というわけで本腰を入れて調べたところ、こういうことらしい。
ウォーコップはイギリスの哲学者。生涯の唯一の著作が Deviation into Sense - The Nature of Explanation (Faber & Faber, London, 1948.) で、生年も没年も不明。わが国では深瀬基寛の邦訳(『ものの考え方―合理性への逸脱』講談社学術文庫)によりある程度その存在を知られている。
https://thinkers.world.coocan.jp/wauchope.htm
中古5万円で和訳本も売っている。
というわけでこの本を裏技で(!?)読んでみると、ウォーコップの言い分は谷川俊太郎が言うほど単純なものではないということがわかる。俊ちゃんはあたかもdeath-avoiding behaviourが不要あるいは余剰なものかのように論じているが、実際は全く逆なのだ。
すべての行動が防衛的であると言い切る用意をわれわれが持たない限り、われわれは「生きている(living)」という言葉に、単に「死んでいない(not-dead)」によってはおおい尽くせない何らかの余分の意味を認めざるを得なくなる。
もし私が、われわれは生きた行動 (living behaviour) を根源的と見ることができるといったとしても、そのために防衛的行動を重要ではないとか不必要だという意味で言おうとするのではない。その見方に立って行動するなら、たちまちのうちにわれわれは死滅してしまうだろう。
つまり、ウォーコップはliving behaviourこそが根源的であると主張するものの、この「根源的」とは「支配的」という意味ではない。支配的なのは常にdeath-avoiding behaviourの方で、彼はその事実を否定したわけではないし、その事実が書き換えられるべきとも思っていない。
彼は20世紀初頭の哲学者で、「われわれ人間に与えられている一切の知性や感性を放棄してしまったとしたら、それは人間の存在様式をあえて放棄するやり方でしかない」という、ある種当時の典型的な哲学に則ってこのような分類を論じているにすぎないのだ。
谷川俊太郎が「生きる挙動」が重要だと言ったのは、むしろウォーコップが「生きる挙動」を「無・合理的な行動」と定義したところによるだろう。ウォーコップは例として少年がケンケンパで遊んだり竹馬ごっこをしたりするさまを「生きる挙動」の例として挙げている。俊ちゃんがこれらにシンパすることは一貫性がある。
ウォーコップはmortalityを忘却する瞬間こそが「生きる挙動」と定義しており、いわばアンチ・メメント・モリ的なラディカルな主張をしている。
ここまで俯瞰して見てはじめて谷川俊太郎との一貫性を持つ。谷川俊太郎の哲学の基本は「無意味を愛する」ことにあり、意味の世界を——言ってしまえば——懐疑しつづけることにある。
単純化すれば、death-avoiding behaviourはきわめて合理的で有意味で、living behaviourは合理性がなくナンセンスなのだ。だからliving behaviourの方が重要なのだ。
ようやくはじめに戻るが、こうなると「無気力(apathy)」が最も合理的という結論はむしろ強化される。death-avoiding behaviourに徹すること、それこそが合理なのだ。
ここまでがステージ1です。否、プロローグです。この基盤が整ってはじめて「じゃあどうする?」に移行できる。
そもそもの話ですが、谷川俊太郎の生き方は少なくとも晩年期はアパシーの極致です。
言葉によって何かを表現することに意味はない。今はすべての存在に意味があると思う世界でしょう。でも僕は、すべての存在に意味がないと思ってるの。
https://www.asahi.com/special/tanikawashuntaro/kiku/
僕は、自由に解釈してもらうことに嫌な気持ちは全然ないですね。そこに、今まで自分が考えていたものとは違う何かを発見してもらえたらうれしいっていう感じだね。そもそも僕には、「こういうつもりで書いたのに」っていう気持ちがないから、どう解釈してもらってもいいんです。
自分の作品に関して、思い入れが少ないんでしょうね。いつも割と冷めた目で見てるから。
だって言葉って、万人共有のものでしょう。いくら自分の個性で書いたと思ってても、結局万人にそのまま通じちゃうわけだから、はじめっから自分のものとして抱え込もうとするのは諦めてるわけですよ。
つながる 谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ - プレミアムA - :朝日新聞デジタル (asahi.com)
やっぱり戦争は嫌なんだけれど、これはもう、人間の運命というか、宿命みたいなもので、いくら未来になっても戦争は終わらないだろうという感じを持っていますね。
一種の諦めのようなものなのだけれど、そこにあるリアルな感じというのを持っていたほうがいいのではないかと思います。
人間はやっぱり争うからね。勝負事が結構好きでしょう?
だから、割と、いろんな事件が起こっても、もう平気になっちゃいましたね、年取ったら。
年寄りは、若い人と違って、全然発想が変わるんですよ。
だから、諦めてもいいとか、絶望してもいいとか、そういうマイナスの価値が自分でもありのままに認められるようになったというところがありますよね。
https://jisin.jp/entertainment/interview/2313509/
つまり俊ちゃんは私と同じく、あるいは「詩は歌に恋をする」と同じ理屈で、無気力だからこそ気力に憧れがあった。
「おれそんなに人に対して親切じゃないから。そこまで関心がないの。簡単に言えば。妻にも。若い頃からの一番の悩みは、自分は「愛せない」ということなんですよ。相手が愛してくれないじゃなくて。」
https://fujinkoron.jp/articles/-/3087
( つ•᷅ࡇ•᷄ )つ…。
思うに私は早く成熟しすぎたのよね。年齢U字曲線の果てで得るような気付きを20代で得てしまった。「さとり世代」なんてワードもありますけど、今の若者は先で得るはずの答えを早く知ってしまっているから熱意がないとみなされるのだと思う。実際これは問題だ。70代とかでアパシーというゴールを得れば余生は少ないからまだいいが、アパシーで残り60年とかに放り出されるとなるといよいよやることがなにもない。しかし今更途中式の間違いの海に身を放り出す動機もない。
バカに戻るというのは、きみ、難しいぜ。今となっては。残りの人生をどうすればいい?死ぬまで道化か?
ここで得るのです、ラスコーリニコフ並の天啓を。もしliving behaviourをdeath-avoiding behaviourの対極と位置づけるなら——死を回避する行動とはつまり防衛的であるということだから、その対極とはつまり、デストルドーではないか?
破壊。テロル。言峰綺礼のごとき愉悦。それらはふつうの人生では開拓されていないが故にいつまでも新鮮で、そして恐らく最もlivingな行動足り得るのではないか……。こんな妄執がわたしを付き纏っては離れないのだ。
社会科学者のアーサー・ブルックスは「今なんのために生きているか?」「なんのためなら死ねるか?」に回答できることが人生に意義を持つことだと言った。例えばISISにとってこれほど簡単な問いはないだろう。なんのために生きる?異教徒を殲滅しイスラム教で世界を統一するために。なんのために死ねる?聖戦のために喜んで。( つ•᷅ࡇ•᷄ )つ…。
否定する材料がないよなあ、いつまでも。わかりやすいテロルでなくとも、腹上死がしたいとか。ARuFaも理想の死に様を爆死と言ってるし。合理性からの逸脱ってそういうことじゃないか。
そも、「知る」という行為が不可逆だから、人生の最適解は自身の知識ステートによって変わるんですよね。芥川曰く「完全に幸福になり得るのは、白痴にのみ与えられた特権である」らしいが、白痴になり得ない以上もはや完全な幸福は海岸線上の遠い彼方に行ってしまった。ここまで知恵の実をバクバクした人間はほんとうにテロルでしかliving behaviorを満たせないのではなかろうか。よし社会に貢献することに意義を覚える人間があれば認知的不協和に苦しむかも知れないが、わたしはビッグファイブテストでリベラリズムの値が最高値の人間で、俊ちゃんと同じく社会に対して何の情も義理も感じない。
私は過去の日付にあまり関心がなく
権威というものに反感をもっています
谷川俊太郎, 自己紹介
わたしが世界を今灼かない理由は、テスト終了のチャイムが鳴る前に答えの記入を間違えていないか見直し確認をしているだけだ。早く回答を出してケアレスミスが見つかったら嫌だからね。しかしつぶさに考えれば考えるほどにむしろ確信は強まっていく……。
つまり、社会はいつも「テロルは間違いだ」と云うが、それが社会の命乞い以外のなにかである理由を探しているのです。
ハッタリでもいい……ハッタリでもいいんです、成歩堂さん。オレに信じさせて下さい。
王泥喜法介
もっとも、命乞いと考えるなら社会の言い分は要するにNIMBY的なものだ。極限までリアルなバーチャルワールドで世界を燃やしたり娼婦と好きなプレイをするぶんには「こっち(現実)に持ち込まない限りにおいては勝手にやってくれ」と言うだろう。
そして私を含む破滅願望を持つほとんどの人間にとっては、シミュラークルでも代替が可能だ(それが充分に説得力を持つならば)。結局以前語ったとおり、テクノロジーが無理を通してあぶれ者の居場所を作るのだろう。
私に言わせれば進歩史観が正当性を持つのはほぼ全面的にテクノロジー進化のおかげであって、倫理やら哲学やら人権思想やらが育ったからでは断じて無いと思う。テクノロジーは過去にはその他一切で救えなかったものを救えるようにする唯一の手段で、魔法に最も近いものだ。どれだけ倫理を進化させようと結核で死ぬ患者は減らなかっただろう……。
ドストエフスキーは「人間はピアノのキーではないことを証明するためだけに、あえて混沌と破壊を望むだろう」と云った。しかし証明というよりは納得したいのだ。どんな言葉を尽くしても、どんな証拠を並べても、人をそれだけで納得させることはできない。よしこの目この耳で実物を確認出来れば良いかも知れないが、我々が取っ組み合っているデストルドーだとかliving behaviourだとかは無形の産物だ。確認しようがない。納得を得るには実感するしかない。わたしは実感したい。わたしがピアノの鍵盤ではないことを……。
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