もっと光をもっと花鳥風月を
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
養老先生が仰っている「うつ病の人間の文章には花鳥風月が出てこない」というのはもっともな話だが、この点ひとつとっても観測範囲で色々興味深い特徴がある。
まず、花鳥風月はとくに女性の文章の中に希薄な傾向がある。これは社会性にスキルツリーを伸ばした生物の傾向として直観的に納得はいく。実際、厚生労働省の調査では以下のような供述がある。
[!cite]
女性は男性の2倍程度、うつ病になりやすい。 うつ病が女性に多いことは、世界的な傾向である。
もうひとつ。養老先生はいじめ告発本を読んで花鳥風月が「一言も出てこなかった」と述べていたが、ちまたの文章を見渡すと「一言も」というのはまず殆どない。一言二言くらいは人工物でないものが出てくる。もっともほとんどの場合「場所」の描写としてあらわれるので、愛でる対象としての花鳥風月とは見做されないのかもしれないが。
考えてみるとこのあたりが難しい。画一的に花や鳥なら花鳥風月に入れてしまえと定義すると、先生の言葉の本質からはずれる気がする。以前「【azulicon】神秘について|神秘」について定義したことがあるが、神秘は筆者の嗜好において重要ではあるものの養老先生がいうところの「対物の世界」とのかかわりを保証するものではないということにも気づいた。たとえば芸術やサブカルチャー作品の評論を延々行っているような文章は、むしろ対人の世界の話といっていいだろう。夏目漱石の東工大講演でも「文芸家の真髄は人間である」と語られている。
また、対物の世界が減少したというのは青空文庫で数十年~百年前の本を読むとはっきりわかる。養老先生も仰っているが、昔の小説は自然描写の割合が抜群に多い。
[!cite]
最近の小説にも、「対人」が中心になっているものが多いように感じます。あの人がどうした、こうしたということばかり書いてあって、自然の描写が少ない。昔の文学、小説はそうではなくて、「花鳥風月」がありました。
夏目漱石などを読めば顕著にわかる。自然描写だけで数ページ使うことはざらである。今そんなことをやれば退屈だと一蹴されるだろう。
それだけ近代化・情報化が進み、自然の行き場所がなくなったということなのだろう。そもそもいち若者として云わせてもらえば、自然というものはつまらない。それがまず直観としてある。
なぜつまらないか。それは意味が不明であり、情報化が不能であり、それに適応することで報酬を与えられてきた「対人の世界」のルールとあまりにかけ離れているからである。対人の世界では万物一挙手一投足に意味がなければならなかった。正解とまちがいがあった。情報化する必要があった。自然ではそうはいかない。河川敷に転がる石ころに正解もまちがいもあるものか。
つまるところ、よくいえば現代教育、悪く言えば洗脳の賜物。自然をつまらぬと思うこと自体が現代人にとってある種「自然」な状態なのだということをまず受け入れねばならない。そのうえで「対物の世界」を広げていく訓練が必要なのだろう。
実際わたしの文章にもほとんど花鳥風月は出現しない。頭では愛でているつもりでも、これではだめでしょう。
意識的に出現させるようにすればいいのかという話だが、先生は一日10分でも無理にでも緑を見ろというのでおそらくそういう問題らしい。
ちなみにいい機会だったので文章の花鳥風月度を算出するプログラムを書いた。(azulika private repositry)色々試すと本当に愚痴文にはものの見事に花鳥風月がないものだからすごい。
他にも、(技術系サイトなんだから当たり前かもしれないが)qiitaの文とかはポエム気味のものでも花鳥風月ゼロということもありびっくりした。これとかそこそこ文章量あるのに花鳥風月0件です。
Comments ( 0 )
No comments yet.