長いと思ってた人生-急に短い
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これ一番わかりやすかった
新聞でーす
「この世界の片隅に」を思い出すね。戦争は日常を破壊するのではなく、むしろ日常の延長線上にあり、じわじわと其れを侵食してくるのだ。日常から非日常にスイッチするのではなく、日常の隙間隙間に戦争が入り込んでくる。
着飾るもんがなくなって、かっこつけるもんがなくなって、裸の心で向かい合う、そんなときが来たって気がするよ……。なんか逆正常性バイアスのようなものが働いている気がする。「これだけでは終わらない」という謎の確信がある。予感がするのだ……そして俺の悪い予感はたいてい当たる。今回ばかりは、僕の予想が外れていてくれ……と祈るばかりです(ホ並感) しかしまぁ、自分に火の粉が降りかかるだんになって取り乱すほど格好のつかないこともないからね…… if we should die tonight, then we should all die togetherってことよ。改めて見ると凄まじい歌詞だよな。だが不思議と……清いのだよな。諫山は描写に失敗したけど、ジャンとコニーの巨人化直前のセリフもそういうなにかを描きたかったのだと思う。国のために死ぬなんて御免だが、未来の子供たちのことを考えるとオレは不思議と力が湧いてくるんだ…… 「我々はこれより奥の壁で死んではならん!!どうかここで――ここで死んでくれ!!」とほぼ同義なんですよ。戦争という悲劇を、”これより先の未来”に引き継いではならない。今の国連のように、国際関係に欠陥があって、いつかはそれが爆発する運命であることが見えているなら、やはりいつか誰かがどこかで死ぬ役を引き受けなければならない。思うに……いつの時代も、「平和な時代」に生まれ生きる者たちは、ずっとその役目を先送りにし続けてきた。そして、そのつけを払うという形で幾千の命を失い、すべてを奪われる。その贖いによってその後しばらくはまた平和が取り戻される。しかし、贖われた未来で生まれた人々もまた戦争の痛みを忘れ、「死ぬ役目」を先送りにし続け、やがてまたつけを払うことになる。その繰り返しで世紀は廻っているのではないだろうか。運良くその隙間に入り込んだまま往生する者もあるが……1945年以降に生まれて今日までに老衰した人とかね。しかしそれを恨んでも仕方がない。俺たちにできるのは、きっとその「贖われた未来」を可能な限り永くすることだけだろう。そして戦禍が惨憺であれば惨憺であるほど、おそらく其れは長く持続する。数百年……できれば向こう1000年、もう誰も戦争で苦しまなくても良い世界が続きますように。そのために”今”が徹底的に死ぬ必要があるのなら、甘んじて受け容れるのみ。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
(マタイ26-39)
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