血染めのユフィ
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
偽善じみている、本当に。明日の生活にも困窮し、支援してもらっている身の人間が寄付など。
でも、それでも……それでも今回は看過し難かった。あんまりだ。
2020年11月4日から、エチオピアで結構やばめの紛争が起きています。政府とティグレ人民解放戦線で争ってるんだけど、インターネットも電話もすべての通信が遮断されてるから現地の詳細な被害状況が掴めないという状況らしい。発表では数百人以上の民間人が虐殺されている模様。何万人も隣のスーダンに逃げようとしてるんだけど、収容施設も物資も足りなくてカオスになってるらしい。500円から寄付できるらしいからサマリタンは助けてやってくれ。
https://donate.unhcr.org/int/ethiopia-emergency/
ちなみに募金したことを公言することの是非については、前語った気もするけど、公言すれば自らのdignityを下げるが寄付の拡散の可能性が高まり、公言しなければ自らのdignityが保たれるが今起きている悲劇を拡散できないという点において公言するほうが蠍の火ということで落ち着いています。
最近聖書しか読んでない 善性とは……
自己犠牲はこの世で最も自己中心的な行いと何度か述べているけど、その正鵠は「自分を愛してくれている人たちの気持ちを無視する」行為だからなんですよね。でも、その愛―即ち「生きて欲しい」という願いが、「幸せに生きて欲しい」なのか「鎖に繋がれて自由を奪われて毎秒不幸と痛苦に苛まれてでも生き延びて欲しい」なのかっていうのが実は問題で、少なく見積もっても6割型は前者なんじゃないかなあと思うわけよ。そうなると当人にとっての「ほんとうのさいわい」がカルボナード火山に残ることなら、全員にとってwin-winになりうる。でも4割を見捨てるのは善性ではないわけで……いや、ロジックで考えちゃいけないなやっぱり……「自分が善いと思うこと」を成すほかないんだ、人間は誰しも……けっきょくは……
自己犠牲って、結果として「利他的」になることはあっても本質的には徹頭徹尾「利己的」なんですよ。一般的に「他者の気持ちを考える」っていう言葉の「他者」っていうのは殆どの場合「自分のまわりの人」のことしか指していなくて、例えば「日本の商品を買って経済を回すことはみんなのためになる」という主張の「みんな」とは”日本人のみんな”であり、「全財産を南スーダンに募金する」と南スーダンの”みんな”のためになる。この2つは同時には成し得ず、日本に金を回したぶんだけ南スーダンで救えた命を捨てており、逆に南スーダンに金を回せばその分日本の経済を停滞させ僅かだが破滅に近づけることになる。つまり宇多田ヒカルが言うように「みんなの願いは同時には叶わない」んですよ。誰かを救おうとすれば必ず誰かを見捨てることになる。
人間は生きる限りそういう選択を常に迫られていて、一般的に選び取られるのは自分にとってより親しいもの、あるいはペイバックが期待できるもの。つまり、「自分にとってより得になる(期待値が高い)選択肢」を選び取るんですよ。自己犠牲もその法則からは逃れられず、彼らのペイバックは「主観世界の犠牲者を作り出さない」ことにある。例えば以下のような形のトロッコ問題があったとする。
今、線路の上をトロッコ列車が暴走をしています。
そのトロッコ列車の前方少し先には、5人の作業員が線路の修理をしていました。
ところが、5人はトロッコ列車の存在に気が付いていません。
このまま行くと、トロッコ列車は間違いなく5人に突っ込みます。
そうなると、間違いなく5人は全員死亡することになるでしょう。
あなたは、その様子を線路の上に架かる橋の上から見ています。
そして、あなたのそばには、たまたま誰か1人が立っています。
ここで、あなたが、たまたまそばにいるこの人を橋の上から突き落とせば、それが邪魔となりトロッコ列車は確実に止まります。
あなたは、この1人の人を橋の上から突き落としますか?
それとも、何もしないままいることにしますか?
問題文が想定している選択肢は「1人の人を橋の上から突き落とす」か「何もしないままいる」の二つ。ちなみにこれは一般的に「何もしない」を選ぶ人が多いのだけど、これは「自分の選択で犠牲者を作りたくない」という意志が働いており、「何もしない」という行為は”選択”ではないという考えのもとで決定されているんですね。対して突き落とす人っていうのはきわめて功利主義的な考え方といえる。あるいは責任感が強く、たとえ人殺しと非難されてでも多くを救うことの方が大切だという正義感のもとで動いた。
さて、この2ケースのうち、「自己犠牲」に近いのはどちらだと思いますか?――実は「何もしない」人間の方です。なぜかというと、後者の人間は何がどう化けても絶対に「第三の選択肢」を選び取れない。でも後者の人間は「自分の選択で犠牲者を作りたくない」という一点において自己犠牲信者と共通しており、この人間が「待てよ、『何もしない』というのも自由意志による選択のひとつではないか?」ということに気づく、あるいは納得させられてしまった場合、この人間には「第三の選択肢」が開けます。
そう、第三の選択肢とは――橋の上の他人を突き落とすのではなく、自らが身を投げてトロッコを止めることです。こうすれば「5人の作業員」も「橋の上の他人」も死ぬことはなく、主観世界での犠牲者は一人もいなくなるのです。これが自己犠牲信者にとっての”見返り”。彼が身を投げたのは5人の人生を案じたとか他者を突き落とすには気が引けるとかではなく、これ以上ないくらいの「善行」を行って死ねたという満足感、達成感、あるいは信仰者なら神の教えに従って殉教できたという幸福感のため。この手段の最凶な所は、たとえば満員電車で老人に席を譲ったら「そんな年寄りに見えるんか!アホタレが!」とキレられる、みたいな事態が発生し得ないということです。死人に口なしだが死人には耳もない。自分にとっての善を行うとともに退場することで、万一仮に遺された5人や自分の家族が己の行いを身勝手だと糾弾していたとしても、それが耳に届くことはないし、それによって自分の心情を揺らがされることもない。つまり、先程の満員電車の例では老人に怒られた際にこっちが「なんだよ、譲ってやったのに!」とか言い返したり、あるいは嫌な気分になったりしたらそれは即ち「偽善」へと続く道になりうるが、自己犠牲で身体も心も灼いてしまえばその審判をスキップできる。ある意味で、これは完全犯罪なのです。
線路に身を投げる行為は結果としては利他的になるが、この男は実のところトロッコの向こう側の人の命がどうなろうが知ったことじゃないのだ。たとえ「自分の体格ではトロッコを止められないかも知れない」という事まで考えが回っても、この男は飛び降りる。こいつにとって重要なのは「命を張って人を助けようとした」という事実のみ。つまるところ、自己犠牲とは「結果」を考慮しない行為なのです。清く正しく生きること、内なる善性を満たす”行為”そのものに途方もない満足感を抱く者たちがコミットするのが自己犠牲。故にこれ以上なくエゴイスティック。しかし同時に人間が発揮できるおよそ最強の力であり、この世で最も美しい行いでも在る。すべての生命の遺伝子に強く刻まれた「生きろ」という呪い、本来トッププライオリティであるそれに意志の力で逆らうなんて、これ以上のものがありましょうか。ちなみに自殺は大体のケースは「苦痛」に強制されて死ぬので自由意志ではない。まぁ自由意志という言葉も議論を呼ぶ所ではあるのだけど、たとえすべてが神様のサイコロであっても自分の心の中に「押されて落ちる」という感覚がなければそれは自由でいいでしょう。
極端な話、「ルールや苦痛や脅しによってではなく、自由意志で自らの命を投げ捨てられる」ところまで行き着くことの出来る思想はすべて尊重されるべきだと思います。尊重っていうのはあんまり正確ではないな、「命にふさわしい」という言い方が適切。
だからアッラーは偉大なりと言って自爆テロを行える”ところまで行き着けた”時点で彼らは人生の勝利者だし、ただの絵を踏むことができずに死んだ人間も勝利者。「満足する死」ことが人生の意味であり、それ以外にはない。有史以来、すべての人類が生後必ず共通して迎えるイベントは「死」しかない。この「死」ちゃんに対してどのような言葉をかけて迎え入れるか、どんな顔でそいつと向き合うのか、「死」が投げかけた「生命の意味」という問いにどんな答えを返してやるのか。それを探すための旅路が「人生」です。旅路の終わりに自分なりの答えを返せたら勝ち、閉口し浮かばないままなら負け。その点、自己犠牲は最強で、普通の人間が迎える「死」っていうのはまったくもって突拍子もないもので、伏線もなければドラマチックでもなく、何の用意もしていない状態で突然「うーっす」ってやってきて抜き打ちテストを配られるようなものなのだけど、自分で死のタイミングとシチュエーションを選べるのならそれはもはや自分で作問したテストを自分で解くような行い。事前準備さえ怠らなければ、勝利が確約されているのだ。それでいてオマケ効果として「自分の身を犠牲にして他者を救った英雄」みたいな名誉がもらえる可能性もある。これで自己犠牲しない理由はない!―――こういうのが俺が思う「自己犠牲信者」の考え方です。同時にトカレフに一貫するテーマでもある。でもトカレフは自己犠牲を肯定するゲームではない。
ていうか色々言ったけど、自己犠牲を発現させるには「宗教」を装備していないとほぼ不可能だと思うので、大体は「神の教えに従って生きる(生きた)」という実績が欲しいという理由でサクリファイスることになる。これは見方によっては聖書や神の言葉という「制約」に縛られており自由ではないという見方もできるけど、たとえ規律であっても自分から従うのなら自由であるとも言えるので、これ以上は言葉遊び。それに宗教は必ずしも****を信仰しなければならないわけではなく、好きなアーティストやアニメ、アイドル、恋人、犬でさえ宗教になりうる。そういう人たちに嫌われないような生き方をしたい、あるいはそういう人たちがメチャクチャ良い人なのでそれに倣って生きたい、という理由で自己犠牲的態度を取るというのがいうなれば黄金ルートで、これが芋づる式に伝染していって今に至るというわけよ。
Comments ( 0 )
No comments yet.