藍の正直しんどい
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いわゆるDTM界隈というのは基本的に電子音楽を作るひとが殆どだ。はじめは然程気にも止めなかったが、
あまりにその比率が多いのと、全体的に「インスト至上主義」「電子音楽至上主義」みたいな謎の空気が蔓延しているのに、
割と早い段階で気がついた。気がついたというよりは気に触ったというべきだろうか。
ほぼバンドサウンドのみでやってる人でDTMerと名乗っているのは僕は2人くらいしか知らない。(打ち込み生演奏問わず)
僕はDTMをはじめるまではむしろそういう電子音楽以外あんまり聴かなくて、インスト最高~チップチューン最高いんぐ~という感じだったが、最近ではインスト・電子音楽アレルギーになりかけている。
道を歩けばインストにしか当たらない。EDMにしか当たらない。ダブステップにしか当たらない。(最近はましになってきた気もするが、僕がDTMをはじめた2014年中期くらいは本当にこれがひどかった)
要するに、絶望的に飽いた。どんな曲も似たように聴こえる。テンプレートの使い回しだ。心に一切の波は立たない。
かつては「独創的だ」と思えた複雑なコード進行も、実際は「同じようなヘンテコなコード進行」が内輪回しにされているだけなのにも気付いた。
どれも似たような曲。似たような色。変えようという努力すらしていない。作る側も聴く側もそれでいいと思っているからだ。
wowaka氏のインタビューじゃないが、「こういう曲を作っとけばいいんだろ?」というのが透けて見えるような、そういう嫌な空気をけっこう前から感じていた。
というか、とにかく、あの、歌が少なすぎる。どう考えても。DTMerを適当に100人集めてきたら歌を主に作っている人は片手で数えるくらいしかいないんじゃないだろうかというくらい、少ない。
もしかすると僕が偏った層しか見ていなかったかも知れないが、そんな感じがする。
この話は何度かしているが、僕は歌が好きだ。歌詞のある曲が好きだ。
中には「音楽に歌詞が入るとイメージが固定されて音楽に対する自由な想像ができなくなる」という人もいるらしいが、
僕は歌詞こそ音楽を彩る力だと思うし、人の声は音楽史上何者にも代えがたい美しい楽器であるし、
僕が最も崇めるアーティストは「音楽は歌詞が重要で、他の要素が100点でも歌詞が30点ならその曲は30点だ」と言っていたし、
谷川俊太郎氏がたびたび口にする「詩は歌に恋をする」という概念にも共感できる。
歌はいつも人々の生活に寄り添ってきた。僕は歌の中でもとりわけわらべうたやこもりうたと言った、子どもでも気兼ねなく歌えるような歌が好きで、「歌」が人々の生活とともにある姿そのものに「芸術」とか「美」のようなものを感じている。
じゃあ歌詞がない曲は人々とともに無かったのかというとそんなこたぁ無いだろうが、歌は「口ずさめる」というのが良いと思う。ここらへんは谷川氏の言ってたことと同じ。
それに、(作詞作曲が同一人物であることが前提だが)歌は作曲者の思いがより色濃く出る。思いが強ければ強いほど、歌というのは力を増す。精巧な歌詞はその音楽が持つ美徳を一切邪魔せず、より強く引き立てるのだ。
なんかいろいろ言ったが、別にインストに恨みがあるわけではない。
要するに僕が言いたいのは、インスト至上主義が極まって歌物を聴けない・作れない人がある程度いるのが悲しいということ。
個人の主義の問題なのであまり強く言う事はできないが、歌は歌で素晴らしいものだからアマチュアの歌でもなんでも聴いてみて欲しい。そして音楽を作る人で今まで歌を作ったことのない人は是非作って欲しい。僕はいろんなひとの言葉と歌を聴いてみたい。
ついでにいうと、「歌も作れるしインストも作れる」みたいな人のインストは何故かすんなり入ってくるというか、他と違い似たような色をしていない気がする。例を挙げるとこんぺいとうPとかmamomo氏とかのすけ氏とか。特にのすけ氏は色々とすごい。これはうまく言葉では表せないが、インストなのに入ってくるクオリアは完全に歌モノのそれだ。
なんの独白なのだろう。しばらく家に篭ってアルバム制作だけやっていたから正直気が滅入っている。はっきり言って暗い曲が多いし、作っていても「おれは何のためにこんな産廃ばかり作ってるんだろう、誰が得をするのだろう」ということばかりよぎる。
しかし、元々ぜんぶを一人で作るつもりだったが訳あってちょっと共同制作のような形になってる曲がある。初めて己の楽曲に人の手が加わることになり、「責任」が生まれてしまったので、完成させるにはさせなければならない。
とにかく、一度決めたことをやり通せない奴は何をやってもだめだ。真実かはともかく今はそうやって自分に重しをのせる。あと3曲ほど作れば完成だ。
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