変わり身
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ロックマンエグゼ2を15年ぶりにまたクリアした。だいぶ面白かったけど、シナリオに違和感があったな。昔遊んだ時はシナリオにもめちゃくちゃ移入できていて、最後の方なんか泣いてすらいた気がするんだけど、今回全くそんなことは無かったぜ。俺が悪いのか、実際にはシナリオは稚拙だったのか、わからない。子供の頃はどんな稚拙なシナリオにも移入できていた。どこぞの素人が書いた、三点リーダの使い方もまともに知らぬようなBL小説にすら感動していた。どうやったのかは、今でもわからない。子供の頃は、自分が子供だったから自分に全部託されることに違和感がなかったのかもしれない。今だと、子供に世界のいち大事を預けるなよとか、インターネットで世界を支配できるわけないだろとか、『電磁波5万倍』ってなんやねん、とか、OPBGMのアレンジに感動シーンを頼りすぎだろ、とか、そういうことばっかり気にしてしまう。多分これ、俺が悪いな。器が悪いとどうしようもない。誰か洗脳してくれ。
ただ、最後の少年が(おそらく防磁スーツなしで)メチャクチャな電磁波を浴びてビリビリビリってなってる所は正直興奮した。これは、子供の頃の俺も興奮していた。その記憶だけは明確にある。同じようなクオリアで、ガッシュ31巻でティオがデュフォーの指示で滝行で呼吸の修行をするシーンがあるんだけど、その小さな体に似合わない豪流の滝を頭から受けているティオに興奮していた記憶がある。29巻でゴームから逃れるために「土に埋まっていた」エリーにも。昔から性癖は相当狂っていたんだと思う。
未来がわかれば、と思う。プッチ神父の思想に全面的に同意しているので、早くアカシックレコードが公開されて全員が覚悟をキメられればいいのにと常々願っている。すべての未来がわかれば、自分にとってだけじゃなくて、他人に対しても優しくなれる。例えば今殺したいほど憎い上司がいたとしても、そいつが二ヶ月後飛行機事故でばらばらの肉塊にされて死ぬことが分かっていれば、絶対に優しくなれるだろう。どんな憎まれ口も説教も、むしろ選別のように感じられる。いま妬ましくて妬ましくて仕方ない、高校生の凄腕絵師がいたとしても、そいつが来年には受験に失敗して浪人し、その後も浪人を繰り返した挙げ句親をすい臓がんで失くし十年近く無職を続けた後に首を吊って死ぬ未来まで見えていれば、なんとかして助けになってやりたいと思うだろう。これらは今見えていないだけで、実際にそうなるかも知れないのだ。だが我々はそれを見ることが出来ない。そしてすべてが起きた後になって、罪悪感にさいなまれるのだ。未来さえわかれば。俺は経験則から「悪いことをした者はいずれその報いを受け、善い行いをし続けたものはいずれその酬いを受ける」と信じているので、すべての答えは神が握っていると思っている。公正さなどまるでないようなこの世も、実はまったく正当なのではないかと時折思う。視えているのは所詮、「自分」という個に関する主観と、「他人」という複数に対する客観でしかないので、主観はともかく客観は公正さに関係がない。一見すると日の目を見ないまま悲惨な死を遂げたような人であっても、その人がまことに善く生きていたならば、その人の「主観」では幸福な人生を終えられていたのかもしれない。逆に、成功を収めて大団円で死んでいったように見える有名人でも、その人の心の内側では、なにか満たされない感覚を覚えながら、あるいは行ってきた幾つもの不正義が明かされないまま集めた偽りの声援に常に罪悪感を覚えながら生きていたのかも知れない。それは本人以外には誰にも分からない。個人的には、「主観」が正当でさえあればよいと思っているので、善く生きれば主観における酬いが、そうでなければ主観における裁きがあれば良い。それは、ある気がする。神は知っている。報いとは痛みでなくともよいし、酬いが痛みであってもよい。死さえも時としては恩寵となるのだ。「なんという恩寵 人は死ねる そしてという接続詞だけを残して」と唄った谷川俊太郎然り。本人にとっての報いと酬いが公正に与えられるならば、この世は公正だろう。
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