体温
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LUNKHEADの「体温」を久し振りに聴いている。本当に良い曲だ。
このバンドの曲はこれしか知らないが、その一曲に何度も救われてきた。
生きてるだけで価値がある、とか、命は無条件で良きものだ、とか、そういうことは外面上は現代社会でも信仰されているわけだけど、社会制度の骨子がメリトクラシーに溺れている以上、それらはひっきょう綺麗事で、社会的弱者に対するポーズ以外の何者でもない、というところで答えに辿り着いたと思っている人が多い。
誰が言っていたか忘れたけど、人は一度「謎を解いた」と思うと、それ以上考えるのをやめてしまう。
とりわけ、「ひとつのミスリード」を避けたあとに答えらしきものに辿り着くと、一度罠を避けているものだから、真実だと信じて疑わなくなる。
例えば、「『雄弁は銀、沈黙は金』という諺は沈黙を称揚するものだと思われているが、昔は銀の方が金より価値が高かったので、本来は『雄弁であること』を称える言葉である」という言説を、ほとんどの人は疑いなく信じる。一度「まちがい」らしきものを掻い潜っているように見えるからだ。もちろん、上記の言説は真っ赤なウソである。
そこそこ有名な流言飛語、「『I can’t speak English』では『英語を話せるだけの知能がない』という意味になるため、『I don’t speak English』と言うのが正しい」というのも同様である。これも完全に嘘と言っていい。確かにI don’t speak Englishと言った方がやや自然だが、I can’t speak…と言ってもまったく問題はないし、これだけでネイティブじゃないと思われたりもしない。まして知能がないという意味には決してならない。
このような出で立ちの論法に対して、人はめっぽう騙されやすい。「一般的な用法に対して、逆角度で入ってくる根拠付きのセオリー」という形を見せられただけで赤べこのように頷き納得する。そこに高確率で潜む、「誤りの二乗」に気づけない。
「生きているだけで善い」という論法もそのうちの一つなのではないか、と思う。綺麗事とかスピリチュアルな話ではなく、マクロ経済学に照らして考えれば人命ひとつが唯存在するだけでどれほど社会に貢献しているかは明々白々だ。
無職であれ、身体障碍者であれ、人は生きていれば必ず「消費」という最も重要な経済活動をする。経済という現実的観点から、人はただそこにいるだけで、存在するだけで「よい(qualified)」のだ。
とはいえ、こんなふうに理論をジャングルジムのようにして張り巡らせたところで、「生産性の順位」の問題は解消されない。消費活動をするから社会貢献している、というロジックで封殺できるのは「価値のない人間は死んだほうがまし(生きている価値がない)」という言論のみで、「生産性が高い人間ほど、価値のある人間といえる」という言論は殺せないどころかむしろ促進してしまう。「―よって、価値の高い人間から優先的に優良な福祉や環境を受け取るべきだ」となってくると、これはもうメリトクラシーどころか優生学に片足を突っ込む構えとなる。私はこれをきらったので、命の価値云々に関してはある程度理論武装を放棄している。「順位などなく、ただ絶対的によきもの」としたほうが、すっきりしているし、かえって瑕疵が少なくなるのだ。
ただ、その屋台骨を支えるのが無根拠の精神論だけでは心もとない。こういうときに力となってくれるのが、宗教であり、神様という概念なのである。近代化・産業化・科学化の中で、ニーチェは神の死を宣告したが、むしろ高度情報化社会でこそ、理論武装ではどうしようもない昏い心に対し、神というカリアティードが必要なのである。もっと早くそうしていれば、こんな一億総うつ社会にもならずに済んだろうに!
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