フィクションの命
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例のゲームが面白すぎてずっとフィクションのあるべき姿について考えている
ここまで一つのゲームで考えさせられたのは久しぶりだ 本当によいゲームだった
「フィクションをどんな風に楽しんでも人の勝手」という考え方は、
フィクションの中で本当に生きている命たちにとっては堪ったものではないのかもしれない
そこに彼らの権利はなく、我々の娯楽のために殺されるのだ
フィクションと現実をごっちゃにするとかではなく、世界を創る側の意識問題として
「フィクションの命をどう捉えるか」というのは結構大事な気がする
所詮フィクションだから何をしようが構わない、自分が生み出したキャラは自分の所有物だ、
自分の作り出した世界は自分が好きなように動かして構わない
それはおそらく事実なのだろうが、そうではなく、フィクションのキャラクターを「ひとつの命」として
みなし、本気でそのキャラクターの立場に立って作られた作品は命の輝きが違う気がする
たとえ僕らにとっては虚構の存在であっても、フィクションの世界で生きる人たちにとって
そこで過ごした生活や出会った人や痛み苦しみ、身体に流れる血潮や生命はすべて本物なのだ
彼らは決して見世物にされるために生まれてきたんじゃない、
慰み者にされるために生まれてきたんじゃない
確かに虚構の世界で彼らは「生きている」のだ
と、いう考え方が僕は大好きだという話
たとえば僕が愛して止まない「火の鳥」という漫画は、登場人物がよく死ぬ
何のドラマもなく死ぬ だが、不思議と彼らの身体に流れる血が本物に見える
キャラクターの「意志」をなにより重要に考えているからだろう
これは僕の持論だが、我々一次創作者はフィクションを「生んだ」だけで、その世界の神ではない
親が子にとっての神ではないように、我々は創造主ではない
「作者がキャラクターを操る」のではなく、
「生み出されたキャラクターの意志を作者という媒体を通して世界に伝える」
というのが一次創作者の役割なんじゃないかなぁと思う
僕は「生み出された作品」は時に「それを生んだ人間」を遥かに超越すると考えているので、
「作った側」は作品の邪魔にならないよう限りなくニュートラルな存在でなくてはならないのだ
本当にその作品の世界が存在し、キャラクターが生きているかのように見せなければならない
「作者」という存在は本来、作品において徹頭徹尾不要なのだ
しかし鶏がいなければ卵が生まれない以上やはり「作者」は存在するしかないので、
せめてその存在を限りなく薄くすることが大事な気がする
ようするに、どこまで作品に対して本気になれるかという話
「作品は作者の奴隷」ではなく「作者は作品の奴隷」、
「表現者である前に人間」ではなく「人間である前に表現者」である人
前述のような事を本当に実践している人がいたらそれは恐らく狂気的としか言いようがないが、
僕はその狂気的な事を実行している人間をたったひとりだけ見つけてしまい、
それを心から尊敬しているので僕も少しでも近づきたいとおもふ
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