アニメは疲弊した大人の精神安定剤に成り下がった
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
最近のアニメは「頭を空っぽにして見られる」「社会での苦しみや痛みを忘れられる」存在としての役割しか持っていないような気がする
そもそもフィクションという存在が現実逃避に繋がるのは仕方ないことかも知れないが、それにしてもそれのみが目的になっている
可愛い女の子が日常を過ごす、なんの意味もなく。それを見ている間、頭の中は限りなくカラに近いのだろう
もしくは男主人公が可愛い女の子どもに理由なくチヤホヤされて、自分を主人公に自己投影して悦に浸る
そういう似たようなアニメが無限に生産され続ける これで完全に需要と供給が釣り合うのだ
消費者が飽きても次の世代の消費者がやってくるので似たような精神安定剤を投げ込み続けていればいい
現代アニメは今、社会の荒波と不条理に飲まれ疲弊した大人の精神安定剤、危険な向精神薬に成り下がった
それもひとつのフィクションの役割としてアリだとは思うし、現代にかぎらず昔もそういうアニメは折々あった
しかし最近はあまりにそれのみを目的としたアニメが増えすぎているような気がする
いわゆる「日常系アニメ」という、何も変化しない、緩やかで恐ろしく平和な押し付けがましい癒やしは、
疲弊している社会人には快く映る 居場所を失い何者にもなれなかった彼らはそれをドラッグのように求め続ける
そこに物語はなく、心はなく、命はない ただ精神を安定させる道具、痛み止めとしてのみの役割がある
まさしく心の痛み止め、未来なき現実への鎮静剤 フィクションへの逃避
何も「居場所を失い何者にもなれない人」は今の時代珍しくも何ともない そういう人たちの最後の砦がここなのだ
彼らが悪いわけではない、アニメに罪があるわけではない
何が悪いというなら、おそらくそういう人が増え続けてしまうような現代社会が悪いんだろう
タチが悪いのは、あくまで痛み止めであり痛みの根本の原因は何も変わらないということ
本来フィクションはただ痛みを誤魔化すだけでなく、痛みの根本を打ち倒すほどの力を持っているはずなのに
今のアニメは何も学べない、学ばせようともしない、学ばせる必要がない、学ぶ事を誰も望んでいないから
それはなんか悲しいなぁと思う
誤解のないよう言っておくが、僕は日常系アニメが嫌いなわけではない 実際何年前かまでは、
そういうアニメしか見ていなかった 最も、「らき☆すた」や「けいおん!」のような日常系と今の日常系は
大きな差があるように感じる どちらも緩い癒やしを押し付けているのは変わりないが
最近はそれを隠す気がないというかジャンクフード上等で作っている感じがする
物語や「世界観」などに意味はなく、ただ「視聴者」という現実の対象に対しただ「気持ちいいもの」を提供し続ける
日々積もる暗いニュースや未来の見えない日本と己に対し疲弊しきった人々がただ心に癒しを求めていて、
それに呼ばれて日常系アニメが生み出されたのだ
おそらく、こうでもしないと売れない世の中になっているから所謂頭空っぽ系アニメが量産されるのだろうが、
個人的には、「まりんとメラン」のような、とても精神安定剤とは遠い、心をズタズタに引き裂き、
揺れ動かし、熱を灯すようなアニメが売れる世界が来て欲しいなぁと思う
あとはアニメではないが「ニューダンガンロンパV3」もよかった
フィクションのキャラクターに命を吹き込む。フィクションの声を届ける。それにより現実の人々の心を動かす。
そういう、他に実現しようのない、人の心を打つ力がフィクションの持つ魅力だと思うので、
胃に穴を開け、悩ませ、もらい泣きするような、そういうアニメを久々に見てみたいなぁ~と思う
とにかく、無限の可能性を持つ「アニメ」という芸術を、ただ痛みから逃げるだけの鎮静剤や性欲処理のためだけの
ものにして欲しくないということ 今でも熱を灯したアニメは時折見かけるが、年々その数が減っているような気がする
林原めぐみさんが以前インタビューで「『○○みたい』はオリジナルを越えられない。この先、『みたい』ではないものを作りたくて作る現場に関わっていきたい」と言っていたが、そういう、なんか、おい、わかるだろ、そういうのが見たいんだよ!!
Comments ( 0 )
No comments yet.