デームライト
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ええ癒りました、癒りました(こころ)
最近、生き方がすごく低空飛行です。涙をこぼしたって雨にはならない。
三畳あれば寝られますね。山の水は山の空気のように美味。
朝食らうのは米と納豆、それに野菜と味噌汁の一汁一菜です。肉も魚もなし。まづしいわれらの朝餐はこれだ。
昼はようよう抜かされます。宵っ張りの朝寝坊なものですから、いらないことが多いです。
夜はわたしの生活からはぽっかり抜けているような気がします。この頃は己の気鬱との格闘にせいいっぱいです。
何も要りませんが、それというのがもっとものぜいたくであることにはとうに気づいておりました。
キャピタリズムのほんとうの顔というのは、消費と再生という代謝の強制ですから、「何かを捨てて何かを得る」以外の生き方を与えられないんですね。「何も捨てない代わりに何も得ない」のような、一見あってもよさそうなはずの選択肢は存在しないわけです。得て失うか、ただ失うか、それしかない。それがどうにもつらいです。ハムスターが回し車を遮二無二駆けるように、社会、とりわけ資本主義社会という巨大な機械に電気を流すには、みんなでこんな空役を繰り返すほかないわけです。
みなさんが必死にお金を欲しがるのはいわば代償行為で、労働ですとか学校といった鬱陶しいものに、「時間」という命の欠片をいたずらに削られることが堪えられないので、せめてとその報酬を欲してしまうのです。はじめから奪われることがなければ、何も求めずとも生きていられるのですよ。世界幸福度ランキングの上位陣には往々にして発展途上国が名を連ねるのは、彼らがものごとを気にせず生きているからです。時間を守らない。まじめに働かない。人を疑わない。だからぼろぼろでも仕合わせなのです。どういったタイプの幸福を望むかはおそらく人の感性しだいですが、問題なのはそれを決めるのが出生であり、我々には後天的な選択権がほとんど存在しないということ。已んぬる哉!
寄生獣を読んでいます。とりあえず六巻まで読了しました。
変質していく新一。モノローグでうつる彼の人格には十分人間性が残っているのですが、涙がいっさい出ない。ただただエクスプレッションを失っていくのが寂しい。
犬の死体をゴミ箱に投げ捨てる所が一番印象に残りました。「死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」言っていることはきわめて正しいのに、衝撃を受けるのは、やはり人間だからなのでしょう。とにかく、あんまりにも自然に、当然のように捨てる描写が上手かったです。
ところでラップ登山アタックにはまっております。ドープ!こういうところに本物の”音楽”があったりする。
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