音楽をやめるということ
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
未だに、大好きだった人が「こと日本においては評価されたものに価値があるので。評価されていない無名なものは価値がありません。」と発言したことが受け容れられない。何が悲しいって、発言者自身の作品は(その素晴らしいクオリティに反し)まったく評価されていないということ。つまり自虐ですよ、これは。彼が音楽をやめた理由がこれなら、世界にこれより悲しいことはない。
評価されることって、そんなに大事ですか?特別じゃなきゃいけないんですか?絶対に人から認められなければダメですか? 心にカルラを抱くべき。俺は愛していたのに、彼は自分の作品を無価値だと思っていた。それが本当に悲しい。だって記事ナンバー568見てご覧なさいよ、あんた、アーティスト部門1位(邪道)なんだぜ。他のすべてを押しのけて。それくらい俺は「価値がある」と思ったのに。つまり、作者よりも消費者の方がその人の作品を高く評価しているということです。こういうことは往々にしてある。不思議なものだ。俺自身も俺の作品を愛していないし、生みの親の愛なんてこんなものなのか。でもやっぱり、作者本人から自分の作品は無価値だなんて言われると、悲しいな。俺の今までの発言も、もしかすると誰かに対してそういう悲しみを引き起こしたことがあるのかもしれない。ネヅケンみたいに「俺は天才、俺の作品は神」みたいに豪語されてもそれはそれで嫌だけど、無価値だなんて言わないで欲しいよ。hoddmimirのどこがどう無価値だっていうんだ。
「音楽をやめる」の定義ってなんだろう。はっきり言って、一度作曲に手を出した者が、ある地点から「生涯」一切作らなくなるというのは不可能に近いと思う。あんなにきれいな幕引きをした倉橋ヨエコでさえ、衝動に抗えなかったんだから。だから5年とか10年とか期間があくことはあっても、人はぜったいに「創り続ける」んですよ。そういう意味では、音楽は不滅だ。
とはいえ、10年に1曲しか出さないような人が「アーティスト」として見做されることはまずない。よって、ここで俺が定義します。
・3年以上新たな曲をまったく制作していない
・8年以上新たな曲を公開していない
上記のうちどちらか、あるいは両方を満たした者は、音楽をやめたとみなしてよい
3年という数字は絶妙だと思う。たとえば宇多田ヒカルは2010年から2016年までの6年間、アーティストとしての活動休止を宣言して「人間活動」に従事していたが、桜流しを2012年11月に書いており、2015年3月からアルバム『Fantôme』の制作が開始されているため、期間的にはセーフである。逆に言えば、音楽から相当年数離れるつもりでいた彼女でさえ、これ以上に離れることはできなかった。そういう「呪い」があるのである。引き寄せられるのだ、創るように。
対して、公開に関する年数は正直悩みどころ。はじめは6年にしようと思ったんですが、8年にしておいた。というのは、「右肩の蝶」で有名なのりPというアーティストが8年ぶり(正確には7年強)に新曲をアップロードしたことがあったから。また、俺の最も尊敬する音楽家も、今年、6年越しに新曲を上げていた。
これくらいの期間をあけて、いきなり復活するということは、音楽家には割とよくある。そういう意味では、『彼』もまだまだ死んだとはいえない。開いている期間はたった4年だ!
余談だけど、前述ののりPが復活した経緯がすごくよい。
昨年、水野さんに「またやろう」と詞を送って頂いた事がきっかけとなり、背中を押して頂く形でここまで辿り着きました。素敵な歌詞だったので、時間をかけて丁寧にメロディーを付けさせて頂きました。
※水野さんとは、「右肩の蝶」で作詞を担当した人
こんな熱い文章あります?「またやろう」って。8年ぶりに。そんな言葉かけられたら燃えちゃうわ。こんなこと言ってみてぇし言われてみてぇ~。
ちなみに、ミニアルバムを作る予定です。「GLEAM」というタイトルにする予定。すべて予定。構想はジャケットと楽曲の毛色くらいしかない。ものすごくざっくらばんに言ってしまうと、「SHABON」は米津玄師の影響を強く受けていて、「Umbrelland」では宇多田ヒカルとエド・シーランの影響がすさまじく、今回はGregory And The Hawkの影響が強くなると思われます。どんどん日本のポップシーンから離れていく。
Comments ( 0 )
No comments yet.