クオリアについて
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人は音に色を見出す。音に温度を見出す。音に姿を見出す。「赤」を見たときと「青」を見たときでは、感じる感情そのものが大きく変わるのだ。この個々人が感じる、景色・感触・痛み・匂い・その他すべての五感によって認知される言語化不能な感覚を「クオリア」と呼ぶ。
クオリアは人により微小あるいは甚大な違いがあり、全く同じカラーコードの色を見ていても受け取る感触は人によって違い、またあるいはAが見ている「赤」とBの見ている「赤」が同じである証明ができない。それは人間が色に「言葉」でタグ付けをしているだけで、「色そのもの」を表現できないからだ。いくらAとBがその色を見て「これは赤だ」と言ったとしても、それが同様のクオリアを持つものかは証明できない。いくら空を見上げて「これは青い空だ」と双方が言ったとしても、その「青」がどのような「青」かを表現する術はない。海のような青?では次はその「海のような青」がどんな青かを表現しなければならない。結局、我々はこの「クオリア」を言語では相互伝達できない。
ここまでは比較的有名な話だが、これは同様に「全く別の色を見ていたとしても、クオリアが同じであればそれは本質的に『同一のもの』である」という考え方もできるというのはわかるだろうか。
例えば見知らぬ街の公園の風景を見て、Aはその公園を全く知らないのになぜか望郷の念を抱いた。これはAの中の「なにか」が、全く知りもしない景色に対して「懐かしい」という感情を抱かせたのだ。同様にBは見知らぬ森に望郷を覚えたとする。このとき、二人が感じているクオリアが同一であれば(正確にはこれはあり得ない仮定であるが)、二人が見ているものは本質的に同様である。
この「同様」であるというのは、実存性云々は無関係で、「監視者が観測する世界=世界そのもの」というヨシュア論に基づいた考え方である。監視者が観測しているもの=存在、監視者が観測していないもの=不存在、というわけだ。
この場合、例えば盲点に隠れた黒点は不存在であり、火星は不存在であり、銀河は不存在となる。世界五分前仮説という思考実験もこの理論を応用している。つまり、観測者Aが物体xとyを同一とみなせば、観測者以外の生物あるいは無生物がなんと言おうがそれは”実際に同一”なのだ。女性のヌード写真とハイヒールを同時に見せ続けているとハイヒールを見るだけで興奮するようになったという実験があるが、これは同一とまでは行かずとも全く無関係であるはずのものに「同じなにか」を見出すようになったということだ。そのなにかこそがクオリアである。
我々は「クオリア」そのものを抜き取ることができない。何かの媒体を通さなければ実体化させられないのだ。しかし、擬似的に「クオリアそのもの」を錬成することはできる。それに最も近いのが芸術、とりわけ絵画や音楽といった「叙述」に依らないものである。
言語も時代も違う人々が同じ作品を見て同じように感動を覚えられるのは、それらの芸術が、人間が制作出来るこの世の万物のうちで凡そ唯一「叙述」を必要とせずに意思伝達ができるものだからだ。本来、どんな意思伝達にも基本的に叙述が必要となる。動物の鳴き声・グルーミング・エコーロケーション、すべて叙述のひとつである。——「叙述」の定義をはっきりさせておくと、此処では「それ自身の脳あるいはそれに相当する計算回路で実行された、意思伝達を目的としたあらゆる行動」を指す——「芸術を創る」行為が叙述だとしても、作者が死んでも芸術作品は残るように、芸術とは「作者」とは無関係に第三者の「鑑賞」のみによって意思伝達が行われる。ここにもし一切の(相互意思伝達が可能な)文字列及び音声が介在していなければ、芸術作品はまっとうに考えれば誰にも何も伝達できないはずなのだ。今まで当たり前のように捉えられてきたが、芸術が人の心を動かすのは奇跡以外の何物でもない。そこに叙述が存在しないなら物体と鑑賞者をつなぐパイプは「クオリア」以外にあり得ない。
最もの謎は、「いかにしてクオリアは生まれ、与えられているのか」という点にある。優れたアーティストでもヒット曲ばかりを出せるわけではないように、芸術には正解が存在しない。もちろん、スタートラインに立つための技術力や体系的な理論はあるが、最終的には創作者は「運」に頼るしかない。正確には、「自分が生み出そうとしたクオリアが、他者に対しても正確に再現性を持つ」ことに頼るしかないのだ。不可思議な力。古代人は煙を焚いて雨を祈祷し、雨が降れば神の御業だと騒ぎ立てた。実際は火を焚けば上昇気流が起こって雲を作り雨を生むだけだと知らずに。今、我々はクオリアに対して古代人でしかない。しかしクオリアはおそらく理論的に現せる。人工知能に芸術は作れないとかよく言うが、現時点でもそこそこのものが作れているし、もし「クオリアの正確な再現の仕方」が判明すればもはや芸術が持つ不可思議さは取り払われるだろう。芸術を未知にしているのはクオリアであり、クオリアは未知であるという事そのものによって支えられているのだ。
もし、人が物体を認識するのは五感ではなくクオリアによってだとしたら?「同一のクオリア」を生み出せれば、それはすべてに応用される。例えば「懐かしさ」を感じた公園の、その「懐かしさ」そのものを切り出して、ひとつの音楽に投映する。その時、それを聴く者は「彼が見ていた公園」そのものを聴いている。既に何人かの芸術家は、こういう現象を試そうとしている。未だ完全には程遠いが、芸術家が目指す場所とは究極的にはこの、「自らの感性そのものを投映する」ことにあると思う。
ところで、冒頭で「同じ色でも、人によってその感じ方は違う」と言ったが、この表現はやや正確ではない。微小な違いやイレギュラーはあるにしても「赤を見れば情熱を感じる」「青を見れば海を感じる」「緑を見れば森を感じる、落ち着く」などの基本的なイメージはどの国どの時代の人間でも共通していたはずだ。たとえ本当はAが見ている「赤」はBにとっての「青」で、Bにとっての「赤」がAにとっての「青」だとしても会話に矛盾が生じないのは、タグだけではなくこの「クオリアが共通している(=ヨシュア的同一存在)」だからである。とするならば、個々の物体が持つ「クオリア」は、やはり同一なのだ。それをそれぞれの心の中の受信機が独自のアルゴリズムで変換し、受け止めている。対象物が単純であれば単純であるほど変換誤差は微小になり、「色」という極めて単純な概念であるから人による受け取り方の差異が薄いのだ。要するに、「色が与える印象」が変化しているのではなく「色が与える印象を受け取る心」の誤差によって生じている。
おわかりだろうか。もし、自分の再現したい「クオリア」を自由に創造できるとして、さらにその「クオリア」を受信し変換するアルゴリズムを特定できれば、少なくとも特定できた”そのアルゴリズム”を持つタイプの人間に対しては、「世界創造権」を握ったに等しいのである。私の提唱するクオリア論とは、
1.生物・物質あるいは概念が持つクオリアの「細胞」の理論化
2.自分自身と、伝達したい存在の持つ変換アルゴリズムの解明
この2つを満たす事ができれば、芸術はもはや運否天賦に依らぬ「完全にコントロール可能な存在」となれるのだ。そしてそれが実現すれば、それは今までの「言語を用いた情報伝達」とは比べ物にならないくらい、文字通り別次元の正確無比さを持った意思伝達手段となる。そして同時に、完全な自己実現の手段ともなる。
それが芸術の正しい在り方なのか、美しいことなのかは分からない。しかし、私はクオリアを掴みたい。クオリアを操りたい。そのために日夜クオリアに関する独自の研究を進めているのである。(以上、全て法螺話)
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