キルミーベイベーという記号
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キルミーベイベーが好き
キルミーベイベーという記号が嫌い
キルミーベイベーをリアルタイムで観ていた時、俺は本当に、本っ当に楽しかった 日常系のアニメで言えば一番好きかも知れない 回を重ねるごとに雪玉が転げ落ちるようにどんどん面白くなっていくのが楽しくて仕方なかった 毎回腹が捩れるほど笑っていた 特に「何いきなり飛び込んでるの!」は人生で一番笑ったと思う 次回予告の体操服やすなに興奮したりもした 最終回の次回予告で3人の顔が眩しくて悲しくなった 最終回を迎えた後、あそこまでの虚無感にさいなまれたアニメは他にない 放送終了後も数年間はずっとキルミーベイベーの余韻が消えなかった あの全力で駆け抜けたアニメのことをいつも想っていた 二期を心待ちにしていた しかしやがて例のコピペのように、キルミーベイベーは死んだということを受け入れざるを得なかった
放送当時、キルミーベイベーは2chでメッチャクチャに叩かれていた 誰もがクソつまらん糞アニメと呼んでいた 8話くらいからちょっと擁護派も増え、最終話くらいになると結構好きだという人も多かったが、それでも依然円盤が686枚しか売れなかったゴミという評価に落ち着いていた 俺は1話から随分のめり込んでいたので、周りのそういう空気は悲しかったし怒りを覚えていた どうしてキルミーベイベーが評価されないんだと、彼らの批判を見るたびに思っていた
今、キルミーベイベーは「何」になったのだろう
俺は二つのキルミーベイベーを知っている ひとつはカヅホの作品としてのキルミーベイベー もうひとつは記号としてのキルミーベイベーだ
記号としてのキルミーベイベーとは何なのか 口で説明するのはむずかしい しかしインターネットを見ていれば頻繁に目撃するだろうと思う 「あの」折部やすなとソーニャのことだ 折部やすなの顔をしたキャラクターと、ソーニャの顔をしたキャラクターのことだ 折部やすなであって折部やすなではない ソーニャであってソーニャである必要性はない ふたりの女のことだ
みんなが「折部やすなの顔をした女」と「ソーニャの顔をした女」を描く理由は、lainを描く理由とまったく同じ ”偏在したクオリアでつながりあえるから”
折部やすなが誰なのか、ソーニャが誰なのかなんて、知る必要はない 記号にすぎないからだ 記号に人格は要らない 記号に物語はいらない 記号に命はいらない キャンバスの上に存在するヒエログラフであればいい 彼女たちに、意志はない
………ディスピカブル この感情をあらわすのにそれ以外の言葉を知らない
despicable
【形容詞】見苦しい、卑しい、下劣な、浅ましい、汚らわしい、見下げた
キルミーベイベーが好き
キルミーベイベーという記号が嫌い
serial experiments lainが好き
serial experiments lainという記号が嫌い
チェンソーマンが好き
チェンソーマンという記号が嫌い
助けてくれ………
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