250417
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SDRA2の3章、めちゃくちゃ簡単やん。ダンロン1~3合わせても一番簡単な気がする。3章はヌルゲーの法則ですか。やっぱ明らかに誰かをはめようとするのはダメやね。
藍に電流走る。
「どんな命令でも聞く」というのは、「意思がない」ということではない。
これがすべての鍵であると気付きました。表層に気を取られてしまうと見逃してしまう、きわめてシンプルな事実。
たとえばここに奴隷がいたとしますね。彼女に「水を運んでこい」といった時と「俺の尻を舐めろ」といった時では、従うという結果は同じだとしても彼女の心の動きはまるで違うわけです。いや、というよりむしろ、「従うという結果は同じである」ということの方が大事かも知れない。つまり、主人側からすれば関係ないんですよ。何を言っても従うのなら、与える命令を推敲する必要性がない。
しかし、だからこそ、何を言っても従うからこそ、命令を選別することは大きな武器になるのではないか。うまく言語化できないのだが……何か、何か今まで私の中にまったくなかった気付きの光のようなものを得た気がするのです。エウレカというやつだ。当たり前のことに思えるかも知れないが、当たり前のことにこそ真理が隠れている。ヘールシャムでわれわれは学んだ、人は多くのことについて「教えられているようで教えられていない」のだと。
これはフィクションにおいてもいえることです。フィクションの強みはなんでもかなえられることだと思っている人がいるが、これは実は真逆だ。「なんでもかなえられること」はフィクションの最大の弱点なのだ。この自由という制約のために、フィクションは現実が持つ説得力を失っている。現実ではどんなに不可思議で愚かなことが起きても、それが現に存在することにより、承認されるための試練をすでに通過したのである。しかしフィクションではなんでもかなえられるからこそ、そこに理由が、それも強固な理由が無ければ説得力を持ち得ない。存在するための承認を通過できない。
起こりえないことは起こりえず、起こりうることは起こりうるという前提の下、現実では事実それ自体が出来事の正当性となる。荒唐無稽であるか蓋然的であるかは問題ではない。それは現に存在することにより、承認されるための試練を通過したのである。合格者にそれ以上の試験は必要ない。むしろ、実際に起こること以外に存在を証明する手段はないと言ってもよい。
虚構では事情が異なる。虚構には現実と異なり、起こりうることと起こりえないことの制限が存在しない。虚構の語り部があると言えば全ては存在し、ないと言えば全ては存在しない。現実ではどうあれ、祭司達がそう書き留めた以上、聖書の中に神は実在する。
しかし、虚構である以上、現実の事実とは異なり、その存在自体には何の証拠能力もない。それは承認されるための試験をまだ通過していないのである。それがあるということ或いはないということを人々に納得させるためには、証拠に代わるものを提示しなければならない。
現物を見せるのが最も手っ取り早いことは事実であり、それができる状況には何の困難もない。問題は現物を見せられない状況である。この時は別の方法に頼らねばならない。他者に物事を納得させる際に行うべき説明を思い浮かべれば、証拠の提示に代わる説得手段が何であるかは簡単に理解できるだろう。蓋然性と合理性の提示である。疑う余地がないと看做される確実な傍証をいくつも提示し、一つの論理として納得のいく物語を展開することである。そうすることにより、聞く側はそれはおそらく事実であろうと推定する。
なんでも言うことを聞く奴隷がいるならば、主人はいっそうその扱いに注意しなければならない。自分自身で制約を設けなければならない。奴隷に闇討ちされないためというより、もっとこう、核心的な理由のためだ。それを言語化できないのが悔やまれる。
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