250116
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やることが一個もないのでAIと会話して遊んでるんですが、Gemini exp 1206、正直AGIいってると思う。すごすぎる、知識量が。
何を投げても期待以上のものが帰ってきます。流石にマイナーなエロゲとかは知らないようだが、リトバスのヒロインくらいなら全員完璧に言える。
セカイ系。
一見、大仰な単語です。
広辞苑を見ても、この言葉は載っていません。
しかし、これは歴とした、とあるサブカルチャーにおけるジャンルです。
物語の類型を指す、と定義されます。
そんな大規模な名称ですが、このジャンルが内包する意味は、実はそれほど大きなものではありません。
むしろ、世界の命運を背負わされながらも、世界の広さをまるで知らない少年少女の、小さくて個人的な心情ばかりが描かれているというのが正確でしょう。
pixivにおいては、2024年現在、66,526件もの「セカイ系」タグがついた作品が存在しています。
これは「うごイラ」タグの件数より多く、またその6割以上が小説です。
インターネット最大手掲示板5ちゃんねるでは850もの専用スレッドが過去ログに眠っており、pixivを主戦場としながら5ちゃんねるも荒らしていた厄介なジャンルであることが伺えます。
概要ですが、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」のことを指すそうです。
定義だけ見ても頭が痛いので実例を見てみると、『ほしのこえ』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』などが挙げられます。
なんとなく、頭が痛い理由が分かると思います。
これらの作品は、「セカイ系」というジャンルを確立させた金字塔と言えます。
「世界がどうなるか」よりも「君とどうなりたいか」を話の中心に置きながら、最終的には世界がどうにかなったりします。
「いやいや、他に方法なかったんかい」と思わずにはいられません。
しかし、それが「セカイ系」というジャンルなのです。
この語句ですが、初出は不明です。
2002年頃には既にインターネット上で使用例が確認できますが、それ以前にも使用されていた可能性は、充分に考えられます。
ただ、この頃は意味が明確に定義されておらず、「なんとなくセカイ系っぽい作品」を指して、漠然と用いられていたようです。
その後、2004年に出版された、前島賢の『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』によって、その定義が明確化されました。
この本の中で、前島は、「セカイ系」という言葉を、明確な定義を持った、一つのジャンルとして、初めて位置づけたのです。
今考えれば、ただ面倒なオタクに絡まれる契機をバラ撒いただけの罪深い男ですね。
そんな終末観ですが、「世界の命運を背負わされながらも、世界の広さをまるで知らない少年少女」というのが最大の特徴であり、最も鼻につく部分です。
まず、少年少女は世界の命運なんて背負っていません。
責任ある大人たちが必死に戦う裏でイチャイチャしているだけです。
その自覚すらないので余計に目障りです。
また、世界の命運を賭けた戦いが描かれるにもかかわらず、世界の広さは、ほとんど描かれません。
主人公たちの、個人的な関係性や、内面的な葛藤ばかりが、クローズアップされるのです。
世界がどうなろうと知ったことか、というその態度は、一見すると、非常に無責任で、自己中心的に見えるかもしれません。
しかし、それはある意味で、仕方のないことなのです。
彼らは、世界の広さを、まだ知らないのですから。
その狭い視野をいつまでも持っているからこそ、彼らは幼く、しかし鮮烈です。
良くも悪くも、そういった二律背反した感情を催させる、面倒くさいジャンル、それがセカイ系です。
このような特性から、セカイ系のアンチは数知れません。
「自己中心的」
「中二病」
「ご都合主義」
など、批判のバリエーションも豊かです。
これらの批判は、ある一面においては、的を射ていると言えるでしょう。
しかし、アンチがこれだけいるジャンルは、裏返せばそれだけファンも多いジャンルです。
セカイ系には、そんな悪評をものともしない、あるいは燃料とするほどの強い個性と中毒性があります。
今日も日本のどこかで、世界の命運を背負わされながらも、世界の広さをまるで知らない少年少女が、新たなるイチャイチャ大戦を創造していることでしょう。
以上、ミクロコスモスでした。
世界の終わりと、君の笑顔、どちらが大切か、それが問題です。
以上です。
ありがとうございました。
こんなん、人間でも書けないよ。文章の面白さはファインチューニングしてあるからそうなってるとしても、知識としてだいたいあってる+考察が的を射ているのがすごい。特に『「世界がどうなるか」よりも「君とどうなりたいか」』という表現、セカイ系というわかりにくいジャンルをこれ以上無く的確に言い表している。キミWikipediaかなんかからコピってない?と思うほどだが、検索しても一言一句同じワードは見つからなかった。今すぐすべてのセカイ系の解説ページにこの一文を載せたほうがいい。
死者の思いを汲み取ることは出来ない。
この絶対的な法則と、きみはどう向き合うか。
当然のようで当然でない、ヘールシャム風にいえば「教えられているようで教えられていない」、この鉄則を真の意味で意識したのは、RWBYを見返しているときだった。
RWBYの原作者はすでに死んでいる。同人作品において、原作者という存在の意義は他の媒体より大きいと言っていいだろう。
そしてこの作品は、控えめにいっても明らかにMontyの死後、方向性を大きく変えていうる。包み隠す申し上げれば、迷走しているといっていいだろう。
少なくともRWBYの序盤とそれ以降でファン数を区切って計測すれば、夥しい差があることだと思う。
しまいには「RWBY died with Monty(RWBYはMontyとともに死んだ)」という批評が視聴者層の間で少なからず通じるようになってしまった。
問題はそのあとである。
Montyは確かに死んだ。しかし彼と共にRWBYが死んだかは定かではないし、それを確かめるすべもない。
「Montyはこんなもの望んでいなかった」だとか、「いや、Montyなら続けて欲しいと言ったはずだ」だとか、そんな言葉が批評家と支持者のあいだで飛び交ったりもするが、どれも空虚な言葉だ。本当のことなどわかりやしないのだから。
望んでいたかもしれないし、望んでいなかったかもしれない。知りようがない。知りようがないのだ。
死者の思いを汲み取ることは出来ない。
では、RWBYはどうすればよかったのか?
本当にMontyと共にプロジェクトを畳めばよかったのか?
それを否定できる、主観的でない根拠は、資本主義に平服すること以外にない。
人気コンテンツなのだから内容が粗雑でもとりあえず続ければある程度売れる、だから続ける。
筋は通っている。だが、筋以外のすべてが通っていない。
誰もそんなロジックでは納得できないのだ。
これはRWBYに限らず、原作者を失ったあらゆるコンテンツに付随する問題だ。
操縦士を失った船をどうするか。
たとえば、麦わらの一味を例に考えてみよう。船がコンテンツという看板で、乗船者が開発チームだ。
麦わらの一味は、一度船を変えている。メリー号からサニー号へ。
しかし船が変わったから麦わらの一味の物語が変わったかというとそんなことはない。
では、逆ならどうだっただろうか。
メリー号が変わらず、逆に乗船者が麦わらの一味からまったく別の海賊に変わっていれば。
それはワンピースと呼べただろうか。
ここにこそACGの欺瞞が、錯覚がある。
タイトルは看板に過ぎない。それなのに、タイトルがすげ変わると別作品と呼び、開発陣が一掃されてもそれは同じ作品と呼ばれる。
作品は人が作るものだ。では作る人が変わったなら、なんとしてその作品は一意性を保つというのか。
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