25-12-04_092315
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
口ずさむメロディが~♪
俊ちゃん、旅行に行き過ぎやろ。全国(すべての国)に行ったんじゃないか?うらやましい限りだね。
しかしどうしてこんな犬のような文体に成り果ててしまったのか。2017年に戻りたい。
踊る死体のショーに拍手する方もする方で、ともかく連鎖が止まらない。遺言は届かない。
眼を明けて
こんな文章を書く人間のブログが面白くないわけがない。
よし面白くなくなったのはある意味で当然の副作用としても(幸福になったのだから)、どうにも人が変わったような気がする。真面目を気取った際の挙動さえ違う。
つまり、形式張った場に着ていく服がかつては和服で今はスーツというくらいに、テンデンシイが根本的に違う。そういう意味で別人のよう。いまの私が真面目ぶっている時はかたっ苦しい。
しかし2017年期の文体こそが虚飾であったというのも事実なはずだ。再三言うようにあれはkentz1と米津玄師の劣化コピーで、2017年以前の文章を見ればあっちが本体ということはよくわかる。
藍という名義ではじめた最初のブログの最初の投稿はこのとおりだ。
にょーーーーーーーーー^。^
そして始まる死闘
しかし衛宮士郎は言います。偽物でなぜ悪いのか。劣化コピーでもいいじゃないか。
偽物が本物に敵わない、なんて道理はない。
もし私がkentz1と米津玄師の贋作という猿芝居を続けていたのなら、それはやがて「個性」とも呼べるような存在にまで昇華されていたのかもしれない。
しかしともあれ私がそうしないと決めたのだ。そこに悔いは一切無い。
わりと昔から、自分自身に関心がないんです。
いまは、生きている意味もなくていいと思える。
谷川俊太郎
ブルックス理論だとこれはexistential crisisということになり彼は不幸ということになる。そう考えるとやはり相容れない部分がある。
きのうも言ったが、すべてに意味を求めたがる西洋的価値観と、無意味を無意味のままにしておける和の価値観の差異だなと思う。これはほとんど私の直感なので裏付けがないのが口惜しいが。
言葉が多い言語は意味偏重という感じがしますよね。それだけ多くのものにラベルを与えてきたということだから。その点で言うと英語は類を見ない。あらゆるものに名がつけられている。
言葉が少ないトキポナみたいな言語を使えば、simplicityが癒やしであるということもわかる。トキポナにpost-hoc rationalizationだとかOppression Olympicsみたいな単語があったら絶対嫌だもんな。

早くこれになりたい
言語において言葉が多い/少ないをどう定義するというのかは大論争を引き起こすようだけど、要するに特定の物体や行為に関してそれをどれだけ詳細に表現できるかというところにあると思う。
最近はWIRED.JPをよく見てるからよく分かるんだけど、字幕の和訳では元の英語で言われているニュアンスの殆どが抜け落ちている。これはオミットしたというより拾えないというのが正しい。拾うとナチュラルじゃなくなるんだよね。ナチュラルなユーズの範囲で表せる詳細性が高い言語は言葉が多いと言って差し支えないと思う。
WIREDで見た実例でいうと、「If you do not say ‘please, thank you, and I’m sorry’ as a human being walking on this earth, then you should be put into Etiquette Room 101, and the key should be thrown away.」 が「”ありがとう”や”ごめんなさい”をきちんと言えない人はマナーの基本が身につくまで徹底的に学び直してほしいですね。」と訳されていた。言ってる事はだいたい同じでも解像度が違うのだ。解像度の調整盤が英語のほうが潤沢ということ。英語を日本語のニュアンスに寄せる事はできるが、逆はおそらくできない。
短文でも「君を笑いに来た」と「I came here to laugh at you」なら後者のが言葉が多いしな。(「ここ」というニュアンスが言語化される)
日本語もオノマトペとかは豊富なんだけど、これはむしろナンセンスを抱き留める性質を補強しているよね。現象を意味に落とし込まずに言語化する最後の手段がオノマトペだから。むしろ英語ではオノマトペをほとんど動詞でしかあらわせないあたりが意味偏重をあらわしていると言えるかも知れない。ASMRとか聞いててもタッピング中に「tap,tap,tap…」とか言い出すわけですからね。
話を変えよう。(俊)
でびサロメ同一人物説、過去になんか言及開始したような気もするんだけどどうでしたっけ。その時の記憶ではおそらく別人だろうと結論付けたつもりだったのだが。なぜならサロメはカスだけどでび様は教養があるので。みたいな感じだった気がする。まあ、人は変わるし仮面は剥がれなくなるものですから、二重生活していればこんなことも起きるのかも知れませんが。
Vの燃えを見るたびに思うのが、炎上すること自体が問題というより、事後の謝罪がとにかく下手・あるいは明らかに謝罪する気がないという性根がヘイトを買っている気がする。Shondoくらいちゃんと謝れれば皆許してくれますから。でび様の今回のもとてもじゃないがマトモに謝る姿勢じゃないよな。
この辺読んで勉強し直してほしいですね。
月はひろげた市街地図をうすく青塗りにする
僕は白チオクのちいさい残粒
コロコロ市街双六の上を転つてゆく白い骰子
転し手もない上りもない悲しい骰子
月に
内臓の赤い花花をみんな食べられてしまうた
蜉蝣の悲しいからだに落魄れてしまうた
帽子かむつて
僕はころがつてゆく軽石の骰子
月下市街図,仲村渠
あーいいっすね(ウン)
Comments ( 0 )
No comments yet.