241228
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。

フィクションの死では泣けるが、現実の人間の死では泣けない、みたいな話を絶対に過去一回以上(それも一年以内に)したはずなんですけど、検索しても記事がまったく見当たらない。つらい。
絶対したって!ぜったい、ぜえ~~~~~~ったいしたって!!覚えてるもんハッキリと。でも記事が見つからん。
思い返すと我がObsidianって検索性バリ悪いかもしれん。propertyのdatetimeCreateソートでの直接検索ができないのが致命的。
もう、誰かワイのObsidian整理してくれませんか?全ファイル渡すから。いい感じにタグ付けして、索引ページみたいなの作ってくれや。「愛について語ってる記事」「◯◯について言及してる記事」みたいにまとめてくれたら最高。
でまあ、そういう話なんですけど……フィクションキャラの死で号泣したことは何度もあるが、妹が死んだ時も敬愛する谷川俊太郎が死んだときも涙ひとつ流さなかった。
で、だから藍って冷たい人間だよね~、じゃ、ダメなんです。そんな安易な結論では何も解決しない。仮にそうだとしても、「そうである自分」と付き合っていくほかないのだから、Whyを考えた方がいい。
いくつかヒントはあります。
やはり私は根本的に無感情というか、他人に頓着がない。
私は私の情緒の二面性について長年謎だったけど、最近になってようやくわかった。普通の人と決定的に違う部分がある。それは「近しい」ことによるボーナスが存在しないということ。その代わり基礎点は高いんです。これはどういうことか。
つまりね。一般人っていうのは親族とか友達とか恋人とか、親しい人の死には咽び泣き悲しみ哀悼に暮れるわけでしょう。その代わり、今現在アフリカで飢餓で死んでる子供とか、どこの馬の骨とも知れない成人男性の自殺とかは心底どうでもいいわけでしょう。私の場合、そういう「どこの馬の骨とも知れない他人」も、「親族・友達・恋人」といった近しい人間も、すべて平等の情感しか抱かないんだ。母や妹の死とアフリカの子供の死が等価に扱われるわけです。その代わり、さっきも言った通り基礎点が高く、一般人よりも「無関係の他人の死」に強く情緒を動かされる。一般人が親しい人に100の共感、他人に1の共感を配るとしたら、私は双方に20配ってるみたいなイメージと思って下さい。
24-09-07
結局これの延長線上なのかなと思う。フィクションの死も現実の死も等価なら、そりゃフィクションのほうがドラマチックかつmovingな死を迎えることが多いからね。
まあ、きっと私は現実で誰が死んでも泣きませんよ。この先は。私にとって現実とはフィクション以上に非現実なのです。
でも最近芥見先生のあとがき読んで泣いた。そういう泣き方はできる。ていうか、死ってべつに悲劇じゃないんだよな。普通に考えて。谷川俊太郎もそう言っている。死なんて、言ってしまえば、どうでもいい。良い意味で。人が死ぬのなんて当たり前なんですから、そしてそれに対して抗うすべなんてひとつもないんですから、もっと別のことを考えたほうがいい。前を見ろみたいなことは言わないけど、過剰に死を見るな。意味ないから。

この退屈でくだらない人生を完全に大逆転する方法を思いついた。
彫刻を趣味にしよう。
マジでこれじゃない?”本物”のアンサーに辿り着いた気がする。彫刻じゃん。人生って、彫刻だわ。ずっと。万有引力の発見並の天啓的気づきだわ。
火の鳥鳳凰編だって人生は彫刻って言ってるようなもんだし。
ただ……調べても調べてもわかりません、どこから手を付けていいのか。だれか手取り足取り教えてくれないんですかこういうのって?まずは粘土細工とかからはじめた方がいい?ていうか何を買ったらいいの??
わかんないけど、この冬休み中に彫刻がしたい、無性に。虚構だらけの現代で地に足のついた趣味って感じがする。俺は、陶芸家になる……。
Comments ( 0 )
No comments yet.