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テラリアやってます。クソな部分を一億個あげられます。面白い部分は片手で数えるほどしかあげられません。それなのに今日1日中やっています。人間は狂っている。
以下、聲の形のネタバレを含むので未読の方は読まないでください。
(ふだん藍は作品のネタバレに関して事前告知をあまりしないが、聲の形だけは名作すぎて生涯の体験ロスになるため)

石田と硝子、何度見てもラブコメの主役同士の関係性として異常すぎる。
でも硝子を死にたくさせたのは石田だけど、死のうとした硝子を身を挺して助けたのも石田、っていうのが、個人的には美しいと思います。
私が好きなラブコメ(あるいは人間関係メインの)漫画である聲の形、ゆびさきミルクティー、いちご100%に共通する要素が”罰”なんですよね。
聲の形ではモロ「いくら善人になったつもりでもいつか報いは受けるんだな」という台詞があるけど、最初期とかに犯した罪がずーっと微かに這っていて、終盤に熾烈な裁きを受ける。そこで絶望の底に叩き落されて、そこからゆっくりと立ち上がる瞬間が好きなのです。
その罰で受けた損害自体は最後まで補償されず、キャラクターは何かしらの癒えない傷を抱えて生きることになる。つまり何ならラブコメとして見ればマイナスで終わる。9失って1得るみたいな、希望と呼ぶにはあまりに拙い光だけを遺して幕を引く。
宝石の国とかもそんなイメージか。フォスが裁かれるほどの罪を侵したとは思っていないけど。
ただ、その「1」がかけがえないというか、好きなんです私。天秤では量れない大切な成長です。どの作品でもキャラクターは少しずつ成長していくのだけど、それはいったら慣性的な成長で、真の成長、つまり「致命的な喪失」を伴う成長っていうのはこの9を失って1を得た瞬間のみなのだと思う。
三作に共通するテーマ性が、痛みなき成長などない、ということだと考えます。それぞれの作品は別の角度からその事実を照らしています。
いちご100%の物語は「動けば運命を変えることができる、動かなければ運命でさえ変わってしまう」というお話。
ゆびさきミルクティーは「成長によって恒久的に喪われてしまうものから抗う」お話。
では聲の形は? あの作品のテーマ性とは何だろう?
6巻の帯にあるとおり「生きることは嗚咽」になるのだと思う。
この漫画は特異なことに、主役二名がどちらも「生きていることが恥ずかしい」というコンプレックスを抱えている。
石田は何度贖罪を試みても硝子をいじめていた頃の罪悪感が消えず、硝子はどれだけ周りに支えられても「周りに迷惑をかける自分」ばかりが映り希死念慮を募らせる。
妹でも親でも止められなかった、「生きろ」や「死んでほしくない」では止められなかったそれを止められたのは何か。

「君に生きるのを手伝ってほしい」
https://twitter.com/opus_avantra/status/1283406221488164866
そういうことなんだよね……(永田)
呪いであり、祈りであり、それでいて強制力がない。単純に見えてとても特異なんです、この言葉は。
実際、この契約を結んだあと石田と硝子はそれぞれの夢を追って別々の道を往くことになるわけで。それでも有効なんですね、「生きることを手伝う」という互いの約束は。このへんが……いいんすわ……。
さて罰といっても精神的なものと肉体的なものがありまして、聲の形のすごかったのはフィジカルな罰も両方に下したこと。大体の漫画は精神的なもので留まるんですけどね。
石田は硝子の自殺未遂を止めるために高層階から落下して生死の境を彷徨った。これが彼が硝子を虐めていたことの総決算的な罰である。(罰とはそもそもそれ自体が一種の救いの性質を持っているため、石田にとって本望であったかどうかは関係がない)
で硝子の罰なんですが、これは植野にボコボコにされることですね。ここが映画版ではカットされているのが非常に勿体ない。あれがないと物語として成立しないまである。もうここまでやるかってくらいボコボコです。硝子も無抵抗でそれを受け入れているというのが、つまり彼女もそれを罰と考えているわけですね。
メタ的な視点で見ると、物語における「罰」の役割はヘイトコントロールにあるのだけど、聲の形の「罪と罰」の描写はそれを超えた言語化不能なエモーショナルさがある。リアル以上にリアル。
どのキャラクターも不完全で、酷いミスをいっぱいやらかしている上に、そのほとんどがカバーされずミスがミスのままどんどん物語を拗らせていくという部分がそう感じさせるのかも知れないですね。それでいうとゆびさきミルクティーもそんな感じだけど。
やっぱ「罪と罰」の性質を持った作品やキャラクターが好きなんだと思う自分は。レ・ミゼラブル然り。なぜ?と言われると大変困るのだけど……。なんだろうな。罪と罰って、実はソロで完結しないのよね。罪があるならそこには必ず被害者がいるわけで。そこの関係性を含めた罪と罰なんですよ。罰って被害者が下すものじゃないんだよな。罰はひとりでに下るのです。だから被害者が本当にやることは、「罰を受けた罪人」をどうするか?って部分になる。

だから多分、そこが好きなんだと思う。「赦す」って、200通りあんねん。(聖人のアンミカ)そもそも赦すと赦さないの境界って実はそんなにハッキリしていません。形あるものではないしね。ジャヴェルがバルジャンを「赦した」のか?と言われるとハッキリとは言えんでしょ。
場合によっては「殺す」ことが赦しになることもある。そのへん含めてその作品の今まで描いてきた物語の総決算となる部分なので、どう描かれるのか、というのが往々にして興味深い、みたいな感じっすかね。むりやり言語化するなら。でもやっぱ言語化できるようなものではないのだと思う。

これもその一種かも
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