241024
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
裁判
模擬裁判して~~~~。(唐突)一種のTRPGだろあれって。私が台本作って他の人がやるのでもいいし、誰かの台本でやるのでもいいからやりたい。
異議ってどれくらい通るんでしょうね。却下されたためしがあんまりない気がする。
でも「誘導尋問」とか「意見を求める質問」とか、どんな証言にも理由をつけようと思えば解釈次第でいくらでもつけれそうだし、難癖のつけあいのゲームになる気がしなくもない。ていうか、そもそも被告人の利益のためにあるシステムなんだから検察側に異議権があるのはおかしくないっすか。弁護側だけでいいだろ。元々ゲームバランスメチャクチャなんだから、日本の刑事裁判って。誘導尋問で崩れる程度の立証しかできないならそもそも無罪だろ。さすが「自白は証拠の王様」なんてヤバすぎるルールを掲げていた国の司法は違いますな。
https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/20200120QandA.html#Q13

めちゃくちゃレスバしてて草。言ってることメチャクチャやし。特にQ7とか。
Q7 日本では,なぜ被疑者の取調べに弁護人の立会いが認められないのですか。
A7
被疑者の取調べは適正に行われなければなりません。
憲法第38条には,「被疑者は,自分にとって不利益な供述を強要されず,強制等による自白や不当に長く抑留・拘禁された後の自白を証拠とすることができない」と定められています。さらに,「自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合は,有罪とされない」ことが規定されています。実際,裁判においても,自白が任意になされたものではない疑いがあると判断され,証拠として採用されなかった例もあります。
日本ではまた,制度上,取調べの適正を確保するための様々な方策が採られています。被疑者には,黙秘権や立会人なしに弁護士に接見して助言を受ける権利が認められています。このほかにも,取調べの録音・録画によって,取調べの状況が事後的に検証可能となり,適正を確保することができます。
被疑者の取調べに弁護人が立ち会うことを認めるかについては,刑事法の専門家や法律実務家,有識者などで構成される法制審議会において,約3年間にわたってこれらの問題が議論されました。そこでの議論では,弁護人が立ち会うことを認めた場合,被疑者から十分な供述が得られなくなることで,事案の真相が解明されなくなるなど,取調べの機能を大幅に減退させるおそれが大きく,そのような事態は被害者や事案の真相解明を望む国民の理解を得られないなどの意見が示されたため,弁護人の立会いを導入しないこととされた経緯があります。こうした議論を経て,取調べの適正さを確保する方法の一つとして,取調べの録音・録画制度が導入されました。
日本以外のどこの先進国が被疑者に弁護人の立会いを認めないんだよ。ほかすべての主要国は適正な取り調べが行われていないとでも言うつもりですかッ!
https://jp.reuters.com/business/technology/VIBN3U2FN5LLLKLFJF6Z6YJNDE-2024-10-22/
冷笑開始。
誰にも危害を与えず違反できる法律は全て笑い草だ。
人の欲望や情念を全て法律で決めようとする者は人の思考をまさにその対象へと扇動しているのだ。
Tractatus Politicus
400年前の人間にすでに論破されていることを無限に繰り返しているだけの謎の世界おもしれ~~~。
今からぁ、俺が本当に読むべき記事だけを教えてやるからよく聞け!
- https://sekiguchizemi.hatenablog.com/entry/20170104/1483469468
- https://zatsubun624.blog.fc2.com/blog-entry-320.html
- https://web.archive.org/web/20211007011758/https://ch.nicovideo.jp/hosirin/blomaga/ar1233234
- http://www16.plala.or.jp/senso-koji/
- https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00426/042800008/
先日、鬼人幻燈抄の話をちょっとしたけど、鬼人幻燈抄の一番面白”そう”な部分は副題の良さよね。
- 葛野編
- 江戸編
- 幕末編
- 明治編
- 大正編
- 昭和編
- 平成編
かっこよすぎる。こんなんワクワクしないわけがなくない?同様に不滅のあなたへも「前世編」「現世編」「来世編」とかいう副題がサイコーすぎる。
副題の大切さというのはある気がするな。鬼人幻燈抄なんかほぼここ一点で読み始めたようなもんだったし。
ダグラッドがそうであったように、私は人の大部分の要素を「声」で決めているところが大いにある。良い声の人間はそれだけでそばにいて心地いいし、不快な声の人間はすべての行動が疎ましく感じる。これは立派なルッキズムの一形態であり大問題なのですが、生理的にそう反応してしまうのは事実。
心地よい声の人だけに囲まれていたい。後のことは割とどうでもいい。正直これだけが本音です。このnoteはじまって以来一番飾り気のない心からの言葉かもしれない。
夜と霧を読了した皆様なら「恩赦妄想」という概念をご存知でしょうね。
恩赦妄想とは、例えば死刑を宣告されたものが処刑の直前に土壇場で自分は恩赦されるのではと空想しはじめることである。
私はこの逆のような現象をしばし起こします。処刑妄想、とでも名付けましょうか。
例えば、何かしらの苦難や受難を乗り越えて、よろしいことを達成した直後であったり、楽しい経験を過ごした後なんかに。「私は今から罰を受けるのではないか」と俄に思い出すのです。
しかし処刑妄想においてはスケールは違えど割と普遍的なものではないかとも思います。だって、いいことが起きまくった後に「え?俺今日死ぬの?」みたいにボケることはまあまああるじゃないですか。でもそれがもっと真実味を帯びた形というか、本当に処刑されるような悪寒を覚える。つまり、達成や楽しい経験の喜びの熱が急速に冷却される。
だから私は何も楽しくないのです。何も……。
Comments ( 0 )
No comments yet.