240906
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タオルハンカチとタドルファンタジーで踏める。

ええ……。ワイ67で死ぬんスか?結婚しよ……。
生きている主な理由、フルダイブ技術待ちと男娼のためなんだけど、現時点でここまで身体がボロボロなんだからフルダイブが公に出る頃には仮に生きていても体力が追いついていない可能性が高い。
死とは不思議な存在だ。眠ることは誰も怖くないはず。「永遠に眠る」と言われてもあんまりピンと来ない。しかし「二度と起きられない」と考えると途端に怖くなる。眠る前、電気を消して、布団に入って、目を閉じて、とりとめのないことを考えながらdrift offしたまま、プツッ、と、もう二度と「私」が戻ってこなくなると考えたら。その思考の海は永遠に封鎖され、もうこの世の誰にもアクセスできなくなると考えたら。そのまま10年経っても、1000年経っても、100万年経っても戻らない。なんだか無性におそろしい。「私」がなくなるとはそういうことだろう。永遠にこの世界にアクセスできなくなる。
だからできるだけ吐き出しておく、記録しておくということは大切な気がする。よく死んだ後はHDDを消去したいという言論があるけど、あれ私は真逆に考えるし真逆であるべきだと思う。全公開すべきよね、逆に。旅の記録のロスは生にとって最もdetrimentalだよ。
よく、何をしようが1000年後には跡形も残らないんだから意味ないよみたいなことを言うけど、あれは誤解なんですよね。跡形はあるのよ。「個」が消えるだけで。
例えば1000年前にある野原で野良犬が糸状虫症で死んだとしますね。そこで犬が死んだおかげで土壌が潤って特定の草木が生息したとしますね。草は木の芽に取って代わられ、数百年描けて草原が森林になったとしますね。人間がその森林を伐採して木材を作って、その木材が家を建てるのに使われたとしますね。その家のおかげで住人は雨風をしのげて、家庭を築けて、その家庭の何代目か何十代目かの子孫がやがて糸状虫症を治療できる抗生物質を開発するかもしれない。その時、治療薬の開発者の頭には1000年前の犬のことなんて片隅にもないわけだけど、それでも彼の旅路がこの千年後を繋いだとも言えるわけです。彼がいなくたってどうとでもなかったかもしれないけど、この世界のこのシード値においては彼がいたから全部つながったわけで。そんなふうにしてつながっていくんじゃないかと思うんです。
無駄な命なんてない。すべての屍が我々を繋いできた。死というのはそのうちのひとりになるだけです。
だから死んだ時は「後は任せろ」と言ってほしいわけですね。捧げた心臓がどうなったか知りたいんだ。
『わが文学半生記』という本を知っていますかね。夏目漱石の弟子だった江口渙が、名の通りその半生を回顧するような本なんだけど、ここに漱石の最後の言葉がのっている。
「いま、死んじゃこまる。いま、死んじゃこまる。ああ、苦しい。ああ、苦しい」
しかしそれより残酷なのは、それを知った世間の反応である。
もしもほんとうにこの言葉をいったとしたら、折角の「則夫去私」が死にぎわになってくつがえされたことにもなる。漱石門下の先輩たちにとって、それはたまらないことなのだ。ことに小宮豊隆にその感じがつよく見えた。そして、「あのような高い境地に到達した漱石が、死にぎわになってそんな凡人のいうようなことをいうはずがない」といいたかったのだ。つまり彼らは漱石をして「則天去私」にふさわしい大往生をさせたかったのである。
拒絶されたんですよ。最期の言葉すら。漱石を漱石あらしめるために。これより悲しいことはないと思うね。
心持ち清く尊く死ぬ権利なんて、自ら死を選んだ者にしかない。死に強襲される側にとってはどんな人間も「いま、死んじゃこまる。いま、死んじゃこまる。ああ、苦しい。ああ、苦しい」になるしかないんだと思います。こうなるとやっぱり何故自害がいけないのかわからなくなってくる。いつか語ったけど、チキンレースなんだよなやはり。自害すればその後待っているかもしれないfunを失う事になるが、最後まで自害できなければ「いま、死んじゃこまる。いま、死んじゃこまる。ああ、苦しい。ああ、苦しい」と苦しみ悶えて死ぬほかない。もう、断言します。「ほかない」んです。死ぬとなれば事故か病か刃傷沙汰か、しかしたいがいは病でしょう。病に数年侵されてじわじわ死んでいくなんて苦痛でしかあるまい。
米津玄師が「いつかもし僕の心が 完全に満たされたとしたなら その瞬間に僕は引き金をひきたい」と歌ったように、程よいところで望む死に方を自ら選ぶしかない気がする。安楽死か腹上死がいいなあ。
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