240302
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ぬきたし

美岬ルート、期待通りのぶっ壊れっぷりで爆笑を禁じえない。マジでおもろい。ぬきたしはギャグセンスがいいとは思っていたけど、美岬ルートのライターはメチャクチャノってる。ノってるなあ今日!!(https://youtu.be/JBO_XInhFhw?si=tbl6dayB5WgH4oZm&t=141)


オモロすぎる
自分語りができない
https://note.com/finto__/n/n10f09277436d を見て少し思ったこと。
自分語りができなくなった。……比較的。過去と比べて。つまり、こういう日記に書くことも無くなってきている。
自分語りとは、状態化した抑うつ状態と強い自意識がなければ為せない技です。私はそのどちらも失ってしまった。以前まであったような「自己の考え方を記録したい」という思想も消え失せた。その頃の私は不変であることに固執していたため、自己の心の保全は最優先事項だった。今は違う。私は変化することに対して何の恐怖も抱いていない。
藤井風と『ハレルヤ』、このふたつが私をそういった自意識の牢獄から掬い上げたのです。しかし、その後は?Now what?
事実だけを書き連ねるような日記はパブリックな文書としては適さない。あの施設へ行ったとか、買い物で何々を買ったとかは個人情報になるから。
となれば必然的に主観中心の文書を書くしかないのだが、することがゲームの感想くらいしかない。
創作考察なんかも、私のローカルノートでは外部公開できない資料(e.g.特定絵師の絵)を用いることもあるため、やはりnoteという媒体では不適当となる。
昔の私は毎日毎日何千文字もいったい何を書いていたのだろう? 見返すことはできる。
この前ラジオで「些細なことで喜べるのは幸せなことだ」みたいな話をしたけど、最近人と話す機会がどっと増えて(というか意図的に増やしたのだけど)、すごく楽しい半面、話せば話すほど今まで会話によって得られていた幸福感みたいなのが麻痺してきていて、一ヶ月前までは100得られたオキシトシンが今40くらいしか入ってない感じがする。それがややキビしい。でも同時に気づいたこともあるんですよ。今まで陰気な自分が焦がれていた和気藹々みたいなのの渦中にいる人もおそらくそうなのだろう、と。遊びが日常の人は、一度の遊びで得られる幸福感がもう結構摩耗しているのだと思う。あれよね、空腹と同じよね、本当に。沢庵宗彭の逸話みたいなことだと思う。うまいことできてんなあ世界って。やっぱ上っ面じゃわかりませんね、幸福なんて。
藤井風は「みんなひとりでしょう みんなひとつでしょう」と歌った。星野源は「誰も実はずっと寂しいだろ」と歌った。谷川俊太郎は「おなかがいっぱいのおうさまは おなかがいっぱいなのでかなしかった」と歌った。私のあらゆる思想の基盤はここに根ざしている気がする。人は、みんな独りだ。どれだけの友達がいても、いくばくのお金があっても、配偶者がいても、仕事で成功しても、「絶対に埋められない寂しさ」のようなものと生涯同居している。そして、それこそが顔も名前も考え方も違う私たちを「ひとつ」にしている「道」なのだと思う。私にできることがあるとするなら、この「道」の存在を芸術表現を通してもっと顕在させていくことかなと思っている。「道」が視えていれば、人は争わない。孤独同士では争いは生まれない。
じつに雄弁でございます。読み返してわかったが、やっぱり私はもう言いたいことを洗いざらい書き出してしまっているのだと思う。次いで言うことがもう特に無い。
絵
最近絵の研究が進んでいる。今の所ハッキリめになってきたのは、
- 「目」の綺麗さのバフはかなり強い
- 人は「図形」により快楽を得る
- 背景なし(真白)で考えるなら基本muted colorが有利
肌色を直感と切り離すのがかなり大事だな。対比物がない状態だと肌を暗めに塗るのってかなり抵抗あるんですよね。しかし色は畢竟対比によって認識される「印象」の塊であるという認識を心に刻むべきだ。ゲーテの色彩論に近いかもしれない。
音楽
何度か言っているんだけど、ゲーム音楽で五本の指に入るくらい好きなのがペルソナ5の「母のいた日々」。何が好きって、本当に「完璧」なんですよね。この世の音楽のうちでただひとつにしか「完璧」という称号を贈れないとするなら私はこの曲に贈ると思う。
もちろんコンテクスト込みの話ですが。つまり、このBGMが流れる「フタバパレス」という文脈、その性質、その時点でのストーリーの展開、双葉杏というキャラクター性、すべて包括して考えた時これ以上フタバパレスを飾るに相応しい音楽はないということ。
「悲しい曲」を作るだけならそこまで難しくない。切ない曲、近未来っぽい曲、砂漠っぽい曲、そういうのも個別に作るだけなら不可能ではない。「母のいた日々」はそれらすべてを完璧なバランスで混ぜ合わせてひとつも失わせず成立させているのが本当にすごい。
関連ローカルノート
良いBGMと良い音楽の違い
P5Rで云うと、Whims of FateはWhen mother was there(母のいた日々)より良い曲だが良いBGMではない。When mother was thereはWhims of Fateより良い曲ではないかも知れないが良いBGMである。
どういうことか。WOFは曲としての中毒性が高く、単体性能が高い。BGMではなく単なる曲ひとつとして見た時、私はどう考えてもWOFの方をよく聴くが、それはBGMとしての優秀さを保証しない。この曲はボーカル曲で1番・2番に分かれているが、BGMとして聴くぶんには1番も2番もワンループとしてさして変わらない。ボーカル曲であるがゆえにパートの分割がインストゥルメンタルより限られており、音楽としてはむしろ単純になっている。つまりループ性能が低い。飽きる。またボーカルがあると必然的に曲として目立つし、特に本曲は割とボーカルの主張が激しいので正直プレイ中は鬱陶しくなる。ニイジマパレスが長いので尚の事である。曲単体として見れば本作一二を争うほど好みなのだが、BGMとしては本作一二を争うほどにお粗末といえる。
対照的に、WMTは本作で最もBGMとしてすぐれていた。端的に言えば:
- 曲としてちょうどいい具合に段差がなく、聴き心地がよい(裏方に徹している)
- ボーカルがないので悪目立ちしない
- フタバ・パレスの雰囲気・目的に合致したサウンドを作れている
上記3点を満たしているためである。
BGMとして悪目立ちしないというのは基本原則だが、WMTは3つ目が非常に優れていた。この曲はフタバ・パレスのミステリアスさ・近未来感・そして何より彼女の抱える悲痛や寂しさを言外にあらわせている。ボーカルに頼らず音のみでそれを伝達できるのは素晴らしい。
ゲームのBGMは、あくまでゲームを色付ける(≠盛り上げる)ための色彩のひとつであって、黒子が舞台の前に出てきてはいけない。その時点で単なる音楽とは決定的に性質が異なる。故に「曲としてはいいがBGMとしてはダメ」あるいはその逆が発生しうるのだ。
それでは、お聴き下さい……
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