240225
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奈々瀬ルート、無事号泣……。
完全にポケスペルビサファ編だった。かんっぜんによ。一寸違わずそうです。
名前で呼ばれるより苗字で呼ばれる方が”親密”である、という言外の表現、素晴らしかった。こんな反転はアツすぎます。
ボリュームも思ったよりあって素晴らしかった。今の所パーフェクトです。
ストーリーを考察すると、ヒナミの椅子芸はそろそろわざとな気がしている。二度目あたりから怪しんではいたが、多分まぐれのふりをしてメチャクチャ強いタイプじゃなかろうか。彼女にもなにか裏がありそうだな。
まじに~?ちょっとみんな酷じゃないか?
伏黒が乗っ取られたのは殆ど虎杖の不覚だし、伏黒なんも悪くないと思うけどなあ。あの詠唱が伏黒だったりしたら話変わるけど。こうなっても仕方ないよ。乗っ取られた直後くらいは虎杖守ろうと抵抗してたし、五条戦の間もずっと意識あって恩師を殺すさまをPOVで見てたと考えればね……もう叫び疲れて泣き疲れて絶望してる段階だと思います。
- msgkミームは”correction”として輸出されている
- correctionは「わからせ」のおおよその訳となっている。面白い
Stop thinking about it
言語化の効用がにわかに持ち上げられるようになって久しいが、光があれば影があるもので、言語化にも当然conがある。なお今から行う”言語化”は、喧騒を鎮めるため止むなく「静まれ!」と叫ぶような、あるいは多様性を尊重するために「多様性を尊重しない姿勢(アンチセミティズム等)を尊重しろ!」叫ぶような勢力を真っ先に排除するような、矛盾として認識されぬ第一段階の特殊なアクションである。今後これには名前をつけたい。exempted violationとかunavoidable violationとか色々考えておく。
[!note] AIの提案
The action described, where one seemingly violates their own rules in order to protect or uphold the very essence of those rules, does not have a widely recognized, specific term in English that captures its full nuance. However, based on the nature of the examples provided, a suitable term that could be coined for this concept is “principled paradox.” This term combines the idea of adhering to a principle (even if it means momentarily contravening a rule or standard associated with that principle) with the notion of a paradox, which is a statement or situation that despite seemingly sound reasoning from true premises, leads to a conclusion that seems senselessly contradictory.
The term “paradox” is relevant here as it often describes situations or statements that appear contradictory but hold an underlying truth upon closer examination. The addition of “principled” emphasizes that the action is taken not out of convenience or hypocrisy but out of a deeper commitment to the principle or value that the rules aim to uphold. This term captures the essence of actions like shouting “Silence!” to restore order or excluding intolerant beliefs to promote inclusiveness, where the immediate action may contradict the rule but ultimately serves to protect its core values.
While “principled paradox” is not an established term in the English language, it effectively encapsulates the complex interplay between adhering to principles and navigating the practical challenges of applying rules in a way that truly upholds those principles.
最近、言語化しなくなっている自分が居る。
言語化しないのは嫌だけど、
言葉にしてしまうと、何かが失われるような
感覚に陥ったりするから。
https://note.com/breathing_99/n/na47bd83b3049
これはなかなかいい点を突いている。言語化によって本来形のない「思考」が固定化される。それは時に利点でもあるが、欠点にもなり得る。
解剖学者の養老孟司先生はこれについて「トゲ」というメタファーを用いて語っている。
これはおかしいなと思った事をその場で答えが出なくても何時までも保存しておくって言うことですね。
普通の人はそれは嫌なんですね、たぶん。私自身も嫌な事はあります。トゲが刺さったような状態になるんですよね。
普通はどうするかって言うと、丸めるんですね。そういうもんだと持ってしまえば、もうトゲになりませんから、忘れられるんですよね。
でも、トゲをトゲとして置いておかないとその場で解けるとは限らないですね。
言語化によって、その当時の自分が考えた答えにトゲの形が固定されてしまう。麻雀でいえばリーチです。どんなツモが来てももう手換えはできない。言語化は天才を凡夫に変える。
つまり、形がないまま、無形のまま放っておくべきなのです本当は。ただそれはどうも「負荷」になると。だから形を決めてしまおうとする。ぷよぷよでいうと不定形より定形のが楽に組めるのと同じですね。ただ受けは狭くなる。
むろん自分の中でプライオリティを決めて、どうでもいい事柄はさっさと固定するみたいな切り替えはアリだと思う。しかしなんでもかんでも言語化すりゃ万事OKというわけではない。
AIによる反駁
AIは言語化の欠点として以下の4つをあげている。
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情報の喪失: 言語化は、複雑なアイデアや経験を言葉や文章に変換するプロセスです。しかし、この変換の過程で情報が失われることがあります。言葉や文章は、抽象的な概念や感情を完全に表現することができない場合があります。したがって、言語化によって本来の意味やニュアンスが失われることがあります。
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誤解や曖昧さ: 言語は、個人や文化によって異なる解釈が生じることがあります。同じ言葉や文章でも、人々がそれらを異なる方法で解釈することがあります。また、言葉や文章には曖昧さが含まれることもあります。これにより、コミュニケーションの際に誤解が生じる可能性があります。
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文脈の欠如: 言語化は、特定の文脈や背景を持ったコミュニケーションを伝えるための手段です。しかし、言語化された情報が文脈の一部を欠いている場合、受け手は完全な理解を得るのが難しくなります。特に、非言語的な要素(表情、ジェスチャー、声の調子など)が重要な場合には、言語化のみでは不十分な場合があります。
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制約された表現能力: 言語は限られたシンボルやルールの組み合わせによって構成されています。そのため、言語化は個々の経験や思考を完全に表現することができない場合があります。特に、抽象的な概念や感情、直感的な知識など、言葉や文章では表現が難しいものもあります。
全くその通りだと思います。特に「文脈の欠如」は見逃されやすい。思考を言葉に変えればクラスとして流用可能になるから、当時の文脈を離れて所謂「正義棒」として振るう事ができるようになってしまう。やがて本当の意味から離れていくということもしばしば。
言語化のタチが悪いのは、そうすればやってる側は”スッキリする”のです。この感覚がやらしいのよ!!(https://youtu.be/XDNqEcq-Y9g?si=KsUCjQpaJpCXNKd4&t=1775)
スッキリするから良いことをした、生産的なことをしたという気分になってしまう。錯覚です。言語化は一種の降参であり、フォールドであり、自害である。低ビット量子化といってもいいかもしれない。使いやすい形に圧縮され、脳を専有するリソースを減らせるかも知れないが、二度と元の解像度には戻らない。不可逆に(潜在的)情報が損失される。
誰かに自分の考えを伝える際には言語化せなしゃあないのでやむを得ないんですが、脳内の思索みたいなのは必ずしもすべて言語化する必要性はないと私は強く思います。つまりこういう思索ノート自体が害悪なのですが……。
思考を固定してしまうということの害悪さをみんなもう少し自覚したほうがいい。人は変わっていくんですよ?流動-流動だったものをなぜわざわざ流動-不動にするのか。勝手に自分の装備を呪いの装備にしてるようなものよ。
自分自身が変わっていくのにもかかわらず、思考が過去の一地点で固定されたままになっていると、それはまさに「呪い」になる。自分を守るためにあったはずの言葉が自分の足を雁字搦めにする鎖に化けるのです。引っ張る力は時間の流れの方が強いからね。コンクリで埋めた思考に足をつないでも逆らうことはできない。足ごと千切られるだけ。
また、そもそも言葉が意思伝達の手段として適当というのも疑わしい。なぜなら言語化の巧拙って実は誰にもわからないからです。え?そんなことない?じゃあ一から説明しましょう。
あなたがなにかしらの記事を書いて投稿したとします。コメントで少なからぬ人から「言語化上手ですね!」とか「自分が普段考えてたことが言葉になってる!すごい!」みたいな感想が寄せられたとします。さて、あなたは言語化が上手でしょうか?
いいえ。上記の情報からはその結論には至りません。なぜなら言語化が上手であるというのは、(本稿の定義では)「思考の伝達精度が高い」という事だからです。
読み手が書き手の本意とは的外れな部分で強く共感し、「自分の代弁をしてくれる」と感じれば、読み手にとっては書き手の言語化が非常に上手いと感じることになります。これが真でないことは理解できるでしょう。outcomeの是非はともかくとして、言語化の巧拙に絞って言えば思考の伝達がうまくいっていないのだからこれは言語化が上手とはいえません。例取るとアーサー・コナン・ドイルも似たような現象に苦しんだようで。
翻って、書き手の視点から伝達精度を測れるかというとそうでもない。神でも宮崎のどかでもない我々にとって、読者が文章を読んで本当に感じたことなどわかりゃしないのです。読者が感想を”フィードバック”するのにも言語を用いるのだから、そこでもまた言語化による情報のロスが起きる。堂々巡りです。
つまり、テキストAの言語化の巧拙は鑑賞者によって評価が変わり、最大公約数的な評価を参照したとしても絶対的な結論には至らないということです。
教室であの時きみが歌ってた歌詞の間違ってる方が好き
尼崎武『新しい猫背の星』
私が申し上げたいのは、言語化はどちらかというとself-indulgenceの類であり、潤滑なコミュニケーションや意思伝達の本質ではないということです。誰かの言葉が心地よく感じるのは「波長が合った」からであって、どちらかの何かしらの能力が高いとかそういう話ではない。ファジーなものをコンクリートにしようとするから色々おかしくなる。
関連: 言語化のデメリット
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