221111の日記
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日記を書いてみる事にした。特に理由はない。強いて言えば、せっかくnoteのアカウントがあるのに持て余している気がしたから。
最近はAIアートにお熱になっている。ただイラスト生成に関しては既にやや飽きている。むしろ文章生成の方に再熱している感じ。
AIイラストへの見解に関しては近いうち予約ツイートでお気持ち表明する予定なので多くは書き残さないが、「連続したコンテクストが持てない」のが現状致命的かなと思う。
致命的というか、少なくとも私がアートを表現技法として用いたい時は、コンテクストの保有は必須要件なので、私にとっては当座力不足というだけ。
ただこれは技術発展で用意に解決できるパートだとも思うので、今後に期待。
対して文章生成の方は、程度はあれど文脈を保存・再生できる。AI小説は、この文脈記録をどこまで遡れるかを強化していくだけでどんどん発展していくと思う。
また文章媒体なら画像よりは幾分か容量が軽いので、自前でファインチューニングを試せたりして楽しい。
人にしかアートは扱えないと思う者と、アートは人が扱うには過ぎた代物だと思う者、はたしてどちらが傲慢だろうか。
自分は後者寄りなのだけど、世論は前者寄りっぽい。厭、最近の私の見解では、むしろ「人こそがアート」なのだけど。
人は味を感じる時、嗅覚情報によるものが8割で、舌からの味覚情報は2割以下しか影響しないらしい。アートにもそういうトリックが含まれている気がする。
人が「作品」から感じる芸術的感動などきっと2割に満たず、「作品を創った人間」にこそ感動しているのだ。AIに乗り越えられない壁があるとすれば、そういう部分だと思う。
これは「道理のない」もので、道理で組み上がっている機械ではどうしようもない。
AIがアートを真似出来ないのではなく、色素の一つまで寸分違わずに複製したとしても鑑賞者たる我々がそもそも非合理的な準拠軸を抱えているから感動に至らないということ。
これはボーカロイドがそうしたように、AIに疑似人格を与えることでいくらか緩和できると思われる。
合成音声のSythesizerVには「人格のない音源」がいくつかある(Ryo, Kevinなど)が、それらは人格持ち(小春六花、弦巻マキ)らと比べると話題になりにくい傾向にある。皆なんでもいいから「人」が欲しいのだと思う。そこにきっと理屈はない。そういうふうに感じやすい生き物というだけ。
それでも私が「アートは人が扱うには過ぎたるもの」と思うのは、アートは創造者の心を少なからず食い潰すからである。
表現者はみな、自身を燃やしながら奔る火の車だ。
一度でもものづくりに手を出した人間は、生涯呪われ続ける。栄華をきわめようが道程で破滅しようが同じ。死ぬまで創作が頭から消えることはない。
ものを食べている時も、友達と遊んでいる時も、常に創作はその陰を落とし続ける。「何かを創らなければおまえには価値がない」と囁き続ける。これは恐らくどれほどの名声を得ても変わらない。
それがいつまでも楽しく在れる人はほんの一握りで、実際は成功者と言われる人々でも呪いに苦しめられていることが多い。表現者がよく自死に駆られるのは殆どここに淵源がある。
多くの創作者にとって創作とは「生きた証を残す手段」であり、それゆえどれだけ苦しくても必死になって何かを遺そうとする。それは傍から見れば輝かしきことだが、当人の苦痛は創造を絶する。
この軛を断ち切るには人ならざる者にアートを超越してもらうしかない。「証なんて機械にも創れる」という無慈悲なる現実を叩きつけてもらうしかない。そうされることで、ようやく表現者は呪いから解放される。自由になれる。
ともすればこういう主張はアートへの冒涜とも思われるかもしれないが、むしろこのステージを得てこそ芸術はさらなる昇華を迎えるのではないかと思う。
どれだけの想いを込めても、AIが数秒で作った模造品に負けてしまうような世界になって尚、何かを作りたいと願い続けられる者はきっと現れる。私はそういう人らが活躍する世界を見てみたい。私はそれを「芸術2.0」と呼んでいる。
結果としての芸術をAIに完全支配されることにより、過程としての芸術の価値が増し、より「人というアート」が燦然としてゆく。アートの修羅の時代、それが芸術2.0。恐らくそう遠くない未来に訪れるだろう。法整備でAI作品が強力に弾圧されない限りは……。
敢えて言うなら、AIの台頭は「篩」なのだ。好むと好まざるとにかかわらず、AIが生成できる作品個としての質は今後どんどん進化していき、遠からずうち下手な人間のそれを凌駕する。その時創作者たちは、侵略者たちに対して自分なりの折り合いをつけなければならない。そこで折れずにいられた者、そこまで深く呪われた者、また呪いとの付き合い方を見つけ出せた者だけが残っていく。
一見残酷な話ではあるが、「質だけが芸術のすべてじゃない」という基本原理に立ち返るいい機会ではないかなと思う。
絵に限っていえば、私たちがはじめに筆を執ったのは打算なんかじゃなかったはずだ。手を動かして、線を描いて、色を塗って、その過程そのものが「楽しい」からはじめたはずだ。
そしてそれは、いかにAIが高品質な作品を量産できるようになっても決して奪われないものだ。この点において不可侵は約束されている。
AIに関して随分長々と書いてしまった。ともあれ一番賢いのは、「自分で描く」「AIで描く」の両方の選択肢を持ちながら目的に応じて使い分けられる人だと思う。インスタントラーメンで済ませていい時もあるし、自分で料理を作りたい時もある。そんな具合で、憎むでも阿るでもなくAIアートを「選択肢」として抱えられるのが一番賢明。
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