221130の日記
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人生の目的は、誰にとっても、またどのような形であっても、「満たされる」ことに終始すると思うのだけど、ひとつ厄介なことがある。
満たされるというのは最終目標であって、中途で達成していいものではないのだ。なぜならば満たされた瞬間そのものが「最も死ぬのに期した時」になるため、その場で自害するのが一番よいということになってしまう。
翻って、しかし満たされないままに生き続けるのは苦しい。死ぬまで満たされてはならぬ、しかし満たされぬまま生きたくはない。あちらを立てればこちらが立たず、西も東も悪手の四面楚歌と相成る。どうしたものか。
私は元来人の文章を見るのが好きだった。2000年代後期、個人サイトの二次創作小説や個人ブログをやたら読み漁ったことを覚えている。人の考え方や生活の一部を覗き見るのが楽しかったのだ。それは今も変わらない。しかしこの四半世紀で、インターネットはずいぶん形を変えた。インターネットはどんどん拡大していくのに、生活を切り取る文壇はむしろ縮小していった。個人ホームページからブログへ、ブログからSNSへ。或いは動画からTikTokやShortへ。とにかく何事も短い方がいいということになった。
むかし私が一番心躍ったのは、一千・二千もの記事がある、自分と波長があいそうな個人ブログを見つけた時だった。例外なくすべて読み漁った。ああいう感覚を味わえる機会は減ってきている。
むろんTwitterでも生活の抄本を書くことはできるが、ソーシャルメディアはいい意味でも悪い意味でも「閉じていない」ので、人の家にふらりとお邪魔するようなあの感覚は味わえない。常に正体の知れぬ何かに監視されている。気の休まるときがない。パブリックである以上それはブログや個人サイトも変わらないといえばそうだが、彼らは能動的に訪れなければまず見つからない。あまり的を射た比喩ではないかもしれないが、個人サイトが一軒家ならSNSは集合住宅のようなものだと思う。代わりにはなれない。
ではnoteはどうだろう。ここはある意味ではブログとSNSの狭間のような存在といえる。相互な交流を保障しつつも、あくまで発信者と読者という立場に分かれる。うまく使っている人は本当に個人ブログと遜色ない扱い方をしている。
私はあまりnoteで記事を書かない。日記は本当は専らローカルで書いていた。公開することにリスクこそ感じれど恩恵を見いだせないからだ。公開が伴えばその前に必ず何らかの検閲が必要になる。たとえば極端な話、個人情報は披瀝できないし、苛辣な意見やポレミックを書くことも躊躇われる。それがなんだか鬱陶しかったからだ。
一方で、以前ブログをやっていた時、またそれを辞めた時、「あなたの文章が好きです」「生きがいだったので復活してください」というような意見を一定数頂いた事がある。つまり、私が他者の文章に対してそうであったように、他者も私の文章に何らかの快味を見出していたのだろう。
「そういうもの」を原動力にするのは経験上危ういと感じているが、個人サイトや個人ブログのようなゆるい文壇を少しでも延命できるとするならこういう日記を書いてみるのも悪くないかもしれない。
好むと好まざるとにかかわらず、人の行動は常に周囲に影響を与え続ける。よく「誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃん」というような弁解を見るが、私は「誰にも迷惑をかけない行動」など存在しないと思っている。たとえばこの記事ひとつとっても、どこかしらの一節や言葉遣いが不快だと感じる人がいるかもしれない。私が、またはあなたが呼吸ひとつする音が耳障りな人がいるかもしれない。私が食事をとることで、その食事が食べられないアレルギーの人や、ヴィーガンの人は心中穏やかでないかもしれない。そこで「そんな奴は異常だから気にすることはない」と一蹴することは簡単だが、しかし「誰にも迷惑をかけていない」ことにはなり得ない。
すべての行動は必ず誰かに不快をもたらす。そのように考えておいた方が一先ずよい。「自らは潔白だ」と考えるより驕ったことはない。
しかし、そう考えるのであればもうひとつ必ず同時に抱くべき考え方がある。これとセットでなければ今度はあなたの心が持たなくなる。
それは「すべての行動は必ず誰かに快をもたらす」というものだ。つまり纏めると、「すべての行動は必ず誰かに快と不快をもたらす」のだ。この「誰か」は同一人物ではない。行動Aはある人にとっては喜ばしく、ある人にとっては恨めしいということ。
どんなに心が清い人間にもヘイターはいるし、どんなに腐った人間にも信奉者はいる。行動にもそれが伴うというだけのことだ。とどのつまり、何をやっても人の恨み嫉みからは逃れられないし、また同様に何をやっても人の愛からは逃れられないのだ。
私の好きな谷川俊太郎という詩人がむかしこんな詩を書いていた。
あなたは愛される
愛されることから逃れられない
たとえあなたがすべての人を憎むとしても
やわらかいいのち/谷川俊太郎
はじめて見た時は幾分かの衝撃を受けた気がする。なんの根拠もないがためにかえって凄まじい説得力を持ち、不思議とすとんと腑に落ちたのだ。そんな気がした。
また、米津玄師は「愛情や友情はあなたがいくら疑えど 一方的に与えられて あなたが決められるものじゃないや」と唄っている。人の愛とはつまるところ、そのようにして廻っている。愛は本質的に自己中なのだ。しかし斯くも温かい。この感覚をゆっくり掴んでいくことが、合理主義の呪いを噛み砕いて無意味や不合理を受け容れ、正しいとか正しくないとかを超越した場所で安穏に生きるための道な気がしている。
私は昔からずっと、「深い愛」を持つ人に強く惹かれる傾向がある。谷川俊太郎、深川麻衣、やなせたかし、藤井風など。愛とは何か、という問いへの疑問は尽きないが、「愛こそが」という無根拠な感覚だけはずっとある。どんな成功者よりも、人をまっすぐ愛せる人が一番素敵だ。
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