20240117
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https://www.youtube.com/watch?v=vR-kX2Lgx3M
逆張りとかじゃなくて本当にVIVID VICEが一番好きになってきた。
呪術廻戦のOP4つのうち最不人気だと誰もが言います。再生数もそう言っています。でも実はVIVID VICEが一番良いんです、信じてください……。
脳内OPが一番よく廻るのが四曲中これ。間違いないね。(羂索)
やることなさすぎてひっくり返ってる。こんなに、こんなにもやることがないものでしたか?人生というのは。お年寄りはどうやって生きているんだろう。間違いなく終盤になればなるほどやることはなくなっていくはずだが。

Me irl
私の本名は私が最も尊敬する音楽家と姓名ともほぼ同じです。私の自身の好きなところはそこだけです。
やることがないので1~3年前くらいまでのローカル日記の読み応えがありそうなところを切り貼りします。
俺「マジで良い人」って苦手なんだよね。というのは、俺は 俺自身が唾棄すべき屑人間であるということを自覚しているから、俺という存在を聖人に関わらせたくない のよ。一ミリも。俺という汚濁で聖水を汚したくないわけ。だから、俺は「善い人」が世界で一番好きであるのと同時に、善い人にまったく関わりたくないのです。……それって、俺が世界で一番俺のことを嫌い……ってコト!?わたちは……わたちがきあいでつ……(西宮)。でもなんていうか、基本明るい人が好きですね僕は。ただ、たまに勘違いする人がいるんだけど、「明るい」のと「うるさい」のは全然違うからね。本当の明るさっていうのは深川麻衣みたいなことを言うんです。ポジティブかつ他人のことを想える人。要するに「誰かの幸せを願い、誰かの不幸を悲しめる」人のこと。それが一番大事。それさえ確かであればいい。
https://twitter.com/_nanaakai/status/1540086463101997057
確かに一理あるな、と思った。自分も昔似たような思いしたことある。どれだけ自分がその人を好きでも、愛を告げても、数に直せば1でしかない。それはわかってるけど、好きな人が自分の作品/自分は人気がない、みたいなふうに落ち込んでいるのを見ると、この1は、あなたの渇きを癒やすには値しませんか?みたいな……ショックというか、どうしようもない無力感みたいなものがある。うまくいえないけど。でも同時にクリエイターとして、作品の評価を数字で見てしまって落ち込む気持ちも痛いほどわかる。だから難しいところよね。誰が悪いわけでもない。そういう意味で「4人を目指せる人が伸びる」みたいな選民思想の部分は同意できない。前半は同意するけど。(クラピカ並感)思うにこれはホスピタリティの問題で、店員が顧客を敬い、顧客もまた店員に敬意を払うように、クリエイターはできるだけ人気や愛を数で捉えず、1人でも作品を愛している人がいることに感謝して、消費者側もクリエイターが落ち込んでいても責めたりせずに何度でも支えてやればいいんじゃないかしら。支え合いだよ、ようは。
「見返りはいらない」っていうのは、「お釣りはいらない」的なことではなく「ババ(ジョーカー)はいらない」の方に近い。needlessというよりharmfulなんです、見返りという存在そのものが。「あってもなくてもいい」ではなく、「あってはならない」。見返りの出現率が0%のマップの方がはるかに安全。これが僅かでもエンカウントの可能性があると、その「可能性」自体がすでに「欠乏」「不足」「不安」の意識を確定させ、そのような現象を引き寄せる。荷物になるだけ。ギブアンドテイクはもうごめんだ!私はギブアンドギブでいきますよ。ファック返報性の原理。
https://twitter.com/gyutei_4koma/status/1523115043541295104
いざなわれるようにこれに追い込まれている。何かに狂える人生は幸せです⇄何にも狂えない人生は空虚です。何がひどいって、きっとこんな風にして地底まで堕ちたサラリーマンがおそらくこの国には何百万人といること。システムの欠陥ですよ、だから。ひとりのデヴィアントとかじゃないんだから。革命でシステムを変えるしかない。
喜ぶのが下手だ。内面でいかに発剌としていても、それが外面に出ないから周りから見るといつもつまらなそうにしているように見えるらしい。「喜び下手」は実は社会において相当なデバフで、具体的に言うと一生プレゼントをもらえなくなるよね。オモコロでプレゼントリアクション選手権みたいなのやってたけど、上げる側ってだいたい見返りに「もらった側の喜び」を求めていて、それに応えて喜びを目に見える形で表現する必要があるんですよね。実際の喜び値なんてほとんど関係ない、いかに「表現」できるか。このあたり本当に苦手なので、はやく読心できるデバイスとかが出てきて全人類が装着していることがデフォルトになって欲しい。そういう世界になって困るの疾しいことがある人間だけだろ。わたしは多分得しかしない。わたしの心を覗いて欲しいし、わたしに心を見せて欲しい。おためごかしはうんざり。
https://anond.hatelabo.jp/20190415015833
増田……君はドブネズミみたいに美しい……!
これを見てると、やはり有産信仰に罹りやすいのは排他の対象である無産層自身であり、彼らも望んで有産信仰しているわけではないというのがわかりますね。そしてもうひとつ、「サブカルチャーコンテンツのコミュニティは基本的に有産同士で繋がり合うため、無産が輪に入れない」という権力勾配が彼らのコンプレックスを加速させているということがわかった。この視点は今までやや抜けてたかも。でも言われてみればそうだよな。要するに「仲間はずれ」ってことですからね、なんであっても。そりゃ寂しいよね。よく考えると意味不明な話だな、有産同士でしかつながらないなんて。TWとかも基本的に有産者のFF比エグいし。まぁそれは自分もあまり人のことは言えないけど……。自分の場合は別に選別してるとかじゃなくて、どうせTLをほぼ一切見ないので意味ないかなと思ってるだけ。
こういう無産層を救う人間になりたいと恒から思っています。何千回も言ってるけど、無産こそが一番コンテンツの隆盛に貢献してるんですよ。比率で考えりゃわかるでしょ。生産者が創造ったものを鑑賞てくれる消費者が存在るから、「作品」として成り立つんです。どちらが欠けても成り立たない、ふたりはプリキュアなんですよ。無産を、いえ、自分のことを「価値がない」なんて思わないで。むしろ創作(シノギ)で名声や利益を得られるわけでもないのに、いろんな作品を純粋に愛すことのできる君たちは人間として素晴らしい!
「なんの罪もない人」とか「善良な一般市民」みたいな言葉がすごい嫌いです。「何の罪もない」って、嘘こけと。お前ら全員罪人だろと。おこがましいとは思わんかねと。(おこがましい選手権)で、そんなこと考えてたら思ったんだけど、キリスト教圏って「原罪」の概念があるから「なんの罪もない人」みたいな概念は存在しないのかしら。多分ないよね、聞いたこと無いし。おそらく日本語の「なんの罪もない人」にあたるのは「innocent people」だと思うのだけど、innocentをオックスフォードの辞書で引くと「犯罪を犯していない人」と出る。そこではっとしましたね。英語では「罪」はcrime, guilt, offence, sinなどさまざまな概念に分かれる。(というより本来存在するはずの「罪」のカテゴリを日本語が「罪」の一言でまとめてしまっているのがおかしいのだけど……)innocentは「crimeやoffenceという罪」を持たぬ人のことで、sinを全員背負っているというのは変わらない。ところが日本語ではそういう区別をしていないから、「なんの罪もない人」という言葉は無限の意味を持つ。たとえ発言者の心意ではcrimeやらsinやらいずれかの「罪」に限定されていたとしても、聞く側はそれをどれにでも、またいくらでも広げられるわけです。「なんの罪もない」という言葉は、犯罪を犯していないだけではなく、道徳的にもまったく潔白なる者という含意を無意識のうちに刷り込まれている。このナチュラルな齟齬が「なんの罪もない人」という暴力じみた傲慢を凶悪に押し広げ、「他人に迷惑をかける者」へのスティグマを加速させ、やがては自業自得・自己責任社会を作り上げていった。おぞましい……。言語の奴隷だ、我々は。それでなくても報道の自由71位だし、日本語に縛られてると真実(マジ)で考え方歪みそう。
よい人間になりたいぜ。「よい人間」というのは気持ちのいい(agreeable)人間のことであり、その条件を或人と話し合った結果「食べる・寝るが好きな人間」という結論になった。そんなことある?カビゴンじゃねえか。でもそんなことあるかも。見てて気持ちのいいブログって、今日はメロンパンを食べました!おいしかった!みたいな話であって、やれポリティカル・コレクトネスがどうだの金融危機がどうだの言ってる所じゃあない。日々を素直に生きている人、人工物ではなく自然に向き合い続ける人。そうか、人造から遠ざかることが「よい人間」への近道なのかもしれない。食べるも寝るも生物としての自然欲求だ。ポリティカル・コレクトネスだの金融危機だのは社会構築物だ。獣に近づけば近づくほど善くなる。これが人造エネミー……ってコト!?でも「ゲームして楽しかった!」みたいなのも同類項なので、「たのしそう」に集約されるのかもしれない。悪意がない、「すな」を守っているもの。君の中にあるもの。いつか見えなくなるもの。そういうことだろっ(ジャーン)
愛を失ってきた。冨岡義勇のうち岡以外失った。ミッション:愛を取り戻せ!
愛の取り戻し方、わからなすぎる。愛するより傷つける方があまりにも易い。これもう人間自体の欠陥だろ。あと愛のパラドクスへの解法がわからん。愛のパラドクスとは、愛を振りまけば振りまくほど愛ひとつ当たりの濃度が薄くなる現象。誰彼構わずI love youと言う奴と、本当に大切なひとりにしかI love youと言わない奴では、I love youの力は大きく異なる。我々が本当の意味での全愛を成すには、「大切なひとりにしか言わないI love you」の密度を保ったまま、すべてのものに振りまく必要があるのだ。さもなくばペースト状に薄くなった愛しか残らん。
今この世で一番愛を成せている人、男性なら藤井風、女性なら深川麻衣で間違いないと思うんですけど、彼らを見ていても我がふり直らず。彼らは、絶対に、絶対に、何があっても暴言を吐かない。悪口禁止ですよー。その時点でできそうにね〜。
彼らはものすごく絶妙なバランスの上に成り立っている。柔和で、包容力があって、決して人を傷つけないのだけど、自分の意志がないわけではない、むしろ誰より強固に意志を持っている。例えば深川麻衣は初めて[要出典]自分の意志でグループからの卒業を決意した乃木坂生だ。藤井風は「政治・宗教・ゴシップ」の三大火種のうち宗教を臆面もなく全面に出している。ついでにベジタリアンも公言してる。自分が正しいと信じたものに疑いがない、強い意志力がある。そうしても角が立たない理由がおそらく「日頃の行い」なんでしょう。これが絶妙なバランスの妙意。少しでも周りからの信頼度が低ければ成立しないような radicalさを併せ持つことができている。あと、ふたりともかなりの健康志向。これは私もそうであると言っていいでしょう。まとめると健全な精神は健全な肉体に宿るってことらしいです。あーだのこーだの思想を捏ねる前に身体を鍛え直した方がよさそうだ。
ただ仕事への向き合い方は藤井風と深川麻衣はかなり信条を異にする模様。詳しく説明はしないけど。藤井風のスタイルについてもっともわかりやすいのはここ。
自分はただの道具であって、降ってきた曲をシェアしてるだけです。
今時このメンタリティでやれてるアーティストも珍しいんじゃないかと思う。俺は天才だ、俺は天才だと虚ろに呟くどこかの酔っぱらいとは大違いですね。←悪口禁止ですよー
やはり「敬虔」「マインドフルネス」「健康」などがキーワードになってきそうだな。とりあえず聖書に立ち帰ろう…確かに聖書を読み込んだむこう数日は穏やかになれる傾向にある。問題はそれがいつまで続くかなんでしょう。
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