20231221
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official髭男dismの好きなところ:明瞭に歌唱する。
J-POPアーティストで一番歌詞が聴き取りやすいアーティストだと思う。廻廻奇譚とか聴いた後だと特にそう思う。別にdrawlな歌い方が悪いというわけではないけど、あそこまではっきり各音を発音して歌う人は珍しい。
AIアートがいまいち市民権を得ないのは、やっぱり人は本当は絵なんかに興味はなかったという証左なんじゃないかという気がしてきた。上手い人が使えばもう人間が描いたものと遜色がないものを生成できるモデルやLoRAは十分ある。つまり即自としての絵は既に支配できる。しかしそれではだめなのです。使い古された言い方をすれば、そこに心がないから。否、絵に心などはじめからない。「人」が勝手に見出すのです。つまり、自己洗脳。人が描いた絵には魂があり、機械が描いた絵には無いという目で見ればそれが真実となる。はじめから虚像なのだから、観測者の考えた裏側が真実になるのです、春風のエデンのように。
とはいえ、本当にごく一部の化け物並にプロンプト操作が巧い人間、絵師でいうところの神絵師の上澄みのさらに上澄みみたいな人が使ってようやくAIらしさが限りなく0になるって感じで、素人がいくら良質なモデルを使ってもまだまだAIが描いたというのが容易に分かる以上、総体としてまだauthenticなアートを冠するに十分なステージにいない、というのは正しい。
しかしやっぱり「時間の問題」なんだよな。もし完璧に人間のそれを模倣できる域に達したら民衆はどうするのだろう。
「子供っぽい」って言葉、欠陥がある気がする。子供って定義上だと018歳ってことでいいんですよね?どう考えてもレンジがデカすぎる。同じ18年でも4058とかとはわけが違う。もっとはるかに細分化されないとただの超高範囲攻撃でしかない。
「子供っぽい」という言葉は基本的にネガティヴな文脈で使われるので、その範囲で私が定義するなら1218ってとこですかね。上はもっと広げたいくらいだが。せめて19までは入れて良い。5あたりと6
何が言いたいのかと言うと、011あたりと1218あたりは同じ「子供」でも性質が完全に違うということ。私は前者ふたつは心底愛しているが1218ゾーンの人間はできるだけ関わりたくない。これらは虫でいうところの「蛹」の段階であり、それらが終わった後には全く別種の生物として生まれ変わっている。つまり、この間に関わって生まれるその人間の像は必ず消滅する。死が決まっている存在。この範囲に情を持ちたくない。5や6
じゃあ011も同じじゃないか、と言われそうだが、このときの彼らはいわゆる「自然」である。人は小学校を卒業したあたりから「自然」から「人工物」に成り代わっていく。累積した知識や常識a.k.a.偏見のコレクションによって。自然の移り変わりは美しいが、冷蔵庫が次の日ヒーターになってたら困るでしょう。11ではエゴとしての経験値を得る事はできない。基礎固めの段階。大人になってからは逆に柔軟性が落ちすぎて経験値が入りづらくなる。早い話、12
それでいて、蛹は自身のtransitorinessに無自覚なところがある。故に強弁が目立つ。あれはこうだ、これはこうだ、こうあるべきだ、と盲信する。必ずしも他者にそのルールを押し付ける訳では無いが、「この私」が(少なくとも根本的な部分において)未来永劫変わることはないと信じ切っているため、簡単に自他に呪いをかける。自分はこのように生きる、これがおれの信条だ、と言い切って決して心変わりすることがないと思い込み、よしんば変わったとしたらそれは私ではないから殺してくれという具合のヒロイズムに酔い痴れる。狂信とともにどこまでも進んでいけるから基本的に互利的な会話が成立しない。
一番厄介なのは、結局ほとんどの人は蛹を抜ければその瑕疵に気づくんですよ。そして思春期の過ちを「経験値」に変えてしまえるんです。この時期の人間に関わると、インタラクションのすべてを養分にされる。「バンドマンと付き合うと歌にされる」のと同じタイプの念能力を使われている。
これは他のいずれの時期にも使えない術。018って無敵なんです。無敵だからこそ近づきたくない。平等なマッチじゃない。分身とか身代わりで相手をされている気分。何があっても向こうは基本ノーダメ。それでいて自然性を失っているので未成熟なエゴの槍がバンバン飛んでくる。ぶっ壊れです。11のやんちゃは「無邪気」。12~18のそれは「生意気」。人間のしくみ的にその頃にはもう十分邪気を知っているから。
自分を成虫と思い込んでいる蛹ほど怖いものはなくないですか?まぁ、自分を蛹と思い込んでいる成虫も怖いんだけど……こっちは幻視しているだけで思春期の真の無敵性を失っているから、なれてせいぜい「無敵の人」。
まぁ……いろいろ頑張って理屈を捏ねましたけど、結局生意気ということです。0
情動に流されて理性の命じる通りにできないことを「情動の奴隷」などと呼ぶのは、理性側からの一方的な見方であって、例えば、眠さや辛さを押さえ付けて理性の命じる計画を成し遂げて、健康を犠牲にさらすのは、本能や欲望や情動や肉体の側から見たら、「理性の奴隷」と言うべきでしょう。「理性による自己支配が自由だ」などと言い切るわけにはいきません。
https://synodos.jp/opinion/economy/13597/
面白ェ……!
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