蠢き出す世界会場
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書くことなさすぎてひっくり返ってる。
以前話したソフィア氏が中国語勉強配信してたからどんなもんかと思って見に行ったらレベル1って感じでよかった。私より中国語ができない人間を見ると安心する。(最悪)
Vでいえば花守へるしとかいうのがモンスターすぎる。日英中韓喋れると豪語しているが、配信聴く限りでは少なくとも日本語と中国語はマジで完璧なのでどうやらハッタリじゃないっぽい。それだけならまだしもASMR配信者としての実力がトップクラスなので、なんかもうこの世のすべてを手に入れてます。それずるだよ。
「ニートが絵師を目指す」みたいな題名で、520日くらい毎日8時間くらい配信してる奴がいてひっくり返った。sheer willすぎる。自分なら1日目で意味ないですよ~って言って辞めてそう。
無職で時間があるとはいえ、毎日そんなに長尺で練習できる精神力があるなら普通に働いたほうがよほど楽だと思うのだけど……楽とか楽じゃないとかいう話ではないんだろうな。ていうか、働く方が楽なのは当たり前のことですから。無職期間を千日以上は体験した身としてはっきり言える。永田副社長も同じことを言ってた。
「働かないのが悪い」とは言いません。言いませんが、「働かないのは辛い」と思います。働くことを選んだほうが遥かに楽なんです。マジで。
https://omocoro.jp/rensai/38614/
「真面目に働く」ほど楽な道はない。考えなくて良いから。そこで必要なのは努力ではなく忍耐であり、才能ではなく馴化である。
これを見てる人にまだ社会に出てない学生がいたら、覚えておいてほしい。脅されているほど社会は面倒ではない。楽しくはないが、楽ではある。おそらく学生の頃より遥かに。吉良吉影が云う「激しい喜びはないが深い絶望もない生活」というのは、そういう一般的社会生活の中に宿ると思う。無職は「激しい喜び」か「深い絶望」か一方しか手に入れられない茨の道です。ほとんどの人には向いていまい。
鬱だな……カゲプロでも聴くか……→ブチ上がり完了
アオハルの擬音化のような存在、カゲロウプロジェクト。しかし自然の敵P=アオハルの擬音化かといえばそうとは限らないのが不思議な所。GURUとか曲としては好きだけど全然アオハルムードではない。でも『僕らに喜劇を見せてくれ』は最高。あるなしクイズか?
結局人生のどの時期に触れたかというバイアスが感動の多くを占めている気がする。メラビアンの法則ならぬノスタルジーの法則。コンテンツそれ自体が持つ感動性への影響力は7%にも満たないとか満つるとか。
ゲームアツマールが閉鎖としたと聞いたときも、私はアツマールを一度もプレイしたことがないのでさして所感もなかったのだが、もし私が思春期にアツマール製のゲームに触れて感動し倒していたらこれは無二の親友との今生の別れのようなショックがあっただろう。
ならば『うっせぇわ』とかもZ世代にとってはアオハルの象徴になっていくのだろうか。不思議なものだなあ。八十年前には支那の夜にアオハルを視る女学生もいただろうか。
ところで青春という言葉は外語に訳しにくいとされている。一応adolescenceとか無理やり訳せないこともないのだが、本質を捉える言葉は他のどこにもない。これは青春という概念そのものが日本の侘び寂びのようなものを内包しているからだと思う。青春って実は滅びの美学なんですよね。はかない一瞬の輝きだからこそいとおしい。
そう考えると風の『青春病』はcontroversialな気もする。考えれば考えるほど謎めいた曲で、彼らしい歌な気もすれば彼に反する歌のような気もする。藤井風はimpermanenceを抱きとめるか、という部分が実は曖昧なのだ。日本的感性とよりグローバルな感性の狭間にいる彼にはunwieldyな代物かもしれない。
青春の病に侵され
儚いものばかり求めて
いつの日か粉になって散るだけ
特にこれが、攻撃として言っているのか肯定として言っているのかが定かではない。
この部分だけ見れば「儚いものを求めるな」という反語的スタンザにも見えるが、この歌はこの後「青春のきらめきの中に 永遠の光を見ないで」とつづく。
前述と合わせると「儚いものを求めるな」「永遠を求めるな」という、ふたつの矛盾めいたメッセージが生まれてしまうのだ。
まぁ砕いていけば実際には併せて「青春を永遠と誤解するな、それは儚いものなんだよ」ということなんだけど、問題はその後である。これだけでは「定義付け」であって「主張」ではない。この曲は「その後」を記述していない。
「青春にサヨナラを」と言っているから、総じてアンチ青春的メッセージに思えるが、そんな単純な話でもない気がする。嫌うというより囚われるなということで、藤井風は誰より「囚われ」をおそれているのでこれは納得できる帰結である。
しかしそれらは畢竟レトリック。要するに、イエス、これは青春を病として捉えたアンチアオハルの曲である。より具体的に云えば、anti-aoharismの曲である。アオハルという概念の信仰アオハリズムへのアンチテーゼ。アオハル自体に向けられた敵意ではなく、アオハルを盲目的に信仰する土壌に一石を投じようとしている。
さらに砕く事もできる。こんなことを歌っているのはアオハル信仰が大人になったとき呪いに変わりうることを知っているからである。彼は人々の呪いを砕くことにとにかく躍起になっている。彼にとっては人々の幸福を阻害するすべては異物であり、アオハルもまたいずれ排撃すべきイデオロギーの一種なのだ。(いずれ、と書いたのは、子供の間はアオハルは有益に働きうるから)
というのが私が青春病から受け取る所感だが、実際どうかは知らない。こういうときは本人が書いたより清楚な英詞を参照するのがいいのだが、あいにく今これを書いてる環境ではそれを確認できない。青春病について語ってる記事も見当たらない。これは風の意見じゃなく映像監督の意見だし。
まあ、どだいこんな考察は野暮の一言ですよ。一億回くらい引用してる中澤氏の句を自戒として引用して締めたいと思う。
かみくだくこと 解釈は
ゆっくりと唾液まみれにされていくんだ
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