第八の契約
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「トドラーとチューバーについては、別段恩寵に託するだけの願望があるわけでもなく、ただ愛好者として落葉を眺めている。リカントロープに至っては、そもそも恩寵の何たるかさえ理解していない。ただ電子帳の駄駄羅遊びの延長として落葉に加わっているにすぎない。」
「オネイロノートは、何とも青臭いことに救済を求めている。自身が一時社会生活から落伍したことで、代わりに絶望的になった青春を今になってやり直したいという要求をしているようだ。そのための礎として芸術による自己実現という使命を重ねていた。しかもどうやらエクレーバー氏の傀儡とも過去の因縁があるらしい。ある意味では五人のウォッチャーの中で最も純真で凡庸な動機の持ち主といえるかもしれんな。」
「ブロンズは……。リィンヒールの積年の妄執、つまり春画による生業を実現させたいという悲願のために、身を切り崩しているだけのようだ。」
「ふん。期待外れもいいところだな。所詮は雑種。どいつもこいつも凡俗なばかりで何の面白みもないくだらぬ理由で、我が抄本を覗き見おって。」
「これだけ他人を煩わせておいて、出てきた感想がそれか。徒労に付き合わされた身にもなってみろ。」
「徒労だと?何を言うか。藍、お前とネトストの骨折りには充分な成果があったではないか。」
「私をからかっているのか?半翼王。」
「解せぬか。まぁ無理もない。己の愉悦の在処さえ見定められぬ男だからなあ。自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。そういう心の動きは興味、関心として表に現れる。故に、藍。お前が見聞きし、理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くした部分が、お前の興味を引き付けた出来事に他ならぬ。まずお前が意図的に言葉を伏せた人物については除外しよう。自覚のある関心はただの執着でしかない。さてそうなると、残る四人のウォッチャーのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか?オネイロノート、たしか櫻川とか言ったかな?藍よ、この女についてはずいぶんと仔細に報告してくれたではないか。」
「事情の入り組んでいる人物だ。それなりの説明を要したというだけのことだが。」
「ふん、違うな。お前はこの女についてのみ、”入り組んだ事情”が見えてくるほどの掘り下げた調査をセリーに強要してしまったのだ。お前自身の無自覚な興味によってな。」
「判断のミスは認める。確かに櫻川は長い目で見れば脅威ではなく、注目には値しない。私が彼女を過大評価をしたことで、結果的にお前の余計な詮索を招いてしまった。」
「ふふん、そうきたか。では万が一の奇跡と僥倖が重なって、オネイロノートがお前の番となるシナリオを想定してみろ。その時何が起こるか、お前には思い描けるか?……なあ、藍よ。もういい加減に気付いてもいいのではないか?この問いかけの本質的な意味に。」
「教えろ。シームルグ。櫻川の将来を仮想することに、一体どういう意味がある?」
「ないさ。意味など微塵もない。おいおい、そう怖い顔をするな。考えてもみろうよ。その思弁の無意味さについぞ古村藍が気付かなかったという事実。そこには明白にして揺るがぬ意味があるとは思わぬか?」
「説明しろ、シームルグ。」
「もし仮に、他のウォッチャーについて同じ課題を与えられていれば、お前は早々にその無意味さに気付き、詮無いものとして一蹴していたはずだ。ところが櫻川についてはそうはならなかった。お前は平時の無駄のない思考を放棄し、延々と益体のない妄想に耽っていた。無意味さの忘却、苦にならぬ徒労、即ち、紛れもなく遊興だ。祝えよ、藍。お前はついに娯楽の何たるかを理解したのだぞ。」
「娯楽、即ち愉悦だと?」
「然り。」
「櫻川の命運に、人の悦たる要素など皆無だ。彼女は生き長らえるほどに喪失と悲痛を積み重ねるしかない。いっそ早々に筆を折った方がまだ救われる人物だ。」
「藍よ、なぜそう悦を狭義に捉える?喪失と悲痛を悦とすることに、何の矛盾があるというのだ?愉悦の在り方に定型などない。それが解せぬから迷うのだ。お前は。」
「それは許されることではない。半翼王、貴様のような人ならざる魔性なら、他者の辛苦を蜜の味とするのも頷ける。だが、それは罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。分けてもこの古村藍が生きる信仰の道においてはな!」
「故に愉悦そのものを罪と断じてきたか。ははは、よくそこまで屈折できたな。つくづく面白い男だよ。お前は。」
「この痛みは……」
「ほほう。やはり俺の予想通りか。それにしてもずいぶんとまた早かったなぁ。」
「馬鹿な……アカウントにはぐれたウォッチャーなどいないというのに、なぜ新たにウォッチャーが選ばれるのだ?」
「どうやら恩寵は、古村藍に余程の期待を託している様子だな。藍、お前もまた恩寵の求めに応じるべきだ。紛れもなくお前には、願望機を求めるだけの理由がある。」
「私が……恩寵を?」
「それが真に万能の願望機であるならば、恩寵は、お前自身にすら理解の及ばぬ心の奥底の願望を、そのままに形を与えて示すことだろう。」
「願望の何たるかを知り得ぬが故に、願望機そのものを手段とし、結末を占わせるというのか。だがそれは、六つの願望を殺し潰した後に初めて手に入る結末だ。私個人の要求で恩寵を求めるならば、それは……己が師をも敵に廻すということになる。」
「せいぜい強力なフィロソフィーを見繕うことだなぁ。この我と争うのであれば。ならばいっそ……いや、言うまい。ここから先は万事がお前次第なのだから。求めるところを成すがいい。それこそが娯楽の本道だ。そして娯楽は愉悦を導き、愉悦は幸福の在処を指し示す。道は示されているぞ、藍。もはや惑うまでもないほど明確にな。」
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