宝石の国感想など
この記事を閲覧するにはアカウントが必要です。
宝石の国を全話読んだ。
(なんだっ!この救いのない話は!)
歴代読んだ漫画の中で一番しんどかったかもしれない。こんなのあんまりだよ。フォスが何したっていうんだ。でも同時に一番おもしろい漫画でもありました。昔1巻を読もうとしたときは絵が子どもの落書き以下にしか見えなくて下手だわ何やってるかわからんわ女作者だわで完全に切ってたんですが、アニメを先に観て続きを漫画で読むというのが正規ルートだったっぽい。そうしたら読めたわ。
面白かった点
読者に伝えられる物語が徹底的にフォスフォフィライトを軸に廻っているのに、実際の宝石の国にはフォスフォフィライトの存在は不要だったということ。このシンプルで残酷な構図がフォスが足掻けば足掻くほど物語を面白くしている。誰よりも頑張っているのに、誰の一番にもなれず、誰にも感謝されず、苦しみ続ける。そんな彼の姿を目撃しているのは我々読者だけ。それがフォスフォフィライトというキャラクターへの愛着を一層深めている。
だから月人を無に返して宝石のみんなを救うために祈らせる筈だったのが宝石をすべて粉にしてしまうという支離滅裂な展開になっても、誰よりもフォスに共感できるし、はっきりいってしまえば私はフォス以外全員地獄で灼かれてしまえばいいと思った。丸腰で対話しに来たフォスをろくに話も聞かず宝石の全員でカチ割ったんですよ。「海に捨てようぜ」とかいって破片蹴り飛ばすし。あのシンシャがバラバラにして保管すればいいとか言い出すし。そのまま220年放置。そりゃ「なにをいまさら」ってなるわ。特にボルツが砕けた時はスッとした。カンゴームも嫌いだけどボルツは本当に終始嫌いだったな。贖いがないというか、好きになれる要素が最後まで一個もなかった。ふつう性格に難があるキャラクターってそれを補う要素があるはずなんだけど、まぁボルツに限らないけども、宝石にはそういうのがほとんどない。
一番しんどかったのはやはり「そうじゃないから困る」ですよね。あんまりだよ。本当に。ここまで来ると怒りとかじゃなくて脱力というか絶望というか、もう本当にどうしようもない気持ちになりますよね。シンシャでさえもフォスなんていなくたってよかったんだ。じゃあフォスの一生はなんのためにあったんだ。そんな遣る瀬無さだけが残る。
駄目な点
カンゴーム。以上。
もうやめましょう……!カンゴームについて考えるのは……!女性作者だから云々はこの期に及んでもういいまへん。”こういう”過ちはつくし卿やタツキをはじめ男性作家もまちまちやる。
ただこの作者って、良くも悪くもフォス以外どうでもいいと思ってそうですよね。カンゴームでさえも、ここまでゴリ押しされても何ていうか……『宝石の国』を描くという仕事とは別腹で趣味でやっているだけに思う。つまりカンゴームというキャラクター自体への思い入れがない。メス落ち姫xイケメンという「記号」でしかない。別にカンゴームの位置が誰であろうと良かったんだと思います、好みの男女のイチャイチャが描ければ。ほんとうの意味での「作者の自慰」だと思う。そういう意味で別にカンゴームは寵愛を受けたキャラクターではない。愛はフォスフォフィライトへ一心に注がれている。フォスには代わりがいない。フォスフォフィライトの一生のバックグラウンドがなければ成立しない。ああそうか、誰の一番にもなれなかったが作者の中の一番にはなれたんでしょうね。
そのお経を高校在学中ずっと読まさているうちに、「極楽」と言われる“すべてのもの”が助かるような所でも、宝石は装飾にしかならないんだなとぼんやり思いました。
ここを出発点としてはじめた物語としてはかなり完成度が高いと思います。まさしく主題を十全に伝えられている。とても松井先生のようなプロットを練って始めるタイプの作家とは思えないので、ライブ感でやったと仮定するとやはり相当ツキがあるというかうまくいった例だと思う。
しかし私が何より驚いたのは、『宝石の国』はほとんどmononokeの物語の再上映です。実際あっちにも宝石の少女も出てくるし。何度も再生を繰り返すうち最終的にグチャグチャになって壮大なスケールになって終わるという話も、極楽浄土など仏教要素が入ってくるのも、すべてそう。一番それっぽいと思ったのは107話のフォスが消えていくシーン。構図も描き方もものすごくmononokeっぽい。当然あっちが先なので、明言されていないようだが彼の物語を参考にしたのではなかろうかと思わずにはいられない。
YURiKA 「鏡面の波」ミュージックビデオ/TVアニメ『宝石の国』OPテーマ (youtube.com)
これ普通にド名曲で閉口してしまった。久しぶりに音楽にゾクッとした。曲として良いのももちろんだけど、『宝石の国』という作品にこれ以上なく合ったサウンドですよね。こういうテーマ曲が書ける力は素直に尊敬する。
フォスフォフィライトに共感できない人間がいるらしい。そんな人種、本作の後半部読んでて楽しいのか?と純粋に疑問に思うが、ようするに進撃のエレンに共感できない人種と同タイプでしょう。ただイェーガー派/アンチイェーガー派でいえば日本国内調査だと後者のほうがわずかに多いくらいの比率だったはずだけど、宝石の国は低めに見ても8割の読者はフォス寄りな気がする。マイノリティが逆転しているから一概に言えないか。ていうか、進撃はともかく、宝石の国読んでてフォスよりフォス以外のキャラクターに思い入れあるヤツって流石にただの逆張りとしか思えない。まっとうな読み方じゃないよ。コードギアス観ててルルーシュ以外に自己投影してるようなモンでしょ。ギリギリユークか、あとナメクジとか兄機みたいな良心枠か、あってもシンシャくらい。それ以降は理解できない。万一カンゴームが一番好きとか言うヤツがいたらそいつは紛うことなき異常者です。
なんかよォ~、進撃の時も思ったけどこういう逆張り軍勢って必要以上に攻撃的なんですよね。エレン派にしてもフォス派にしても、おもな主張は「フォスがかわいそう」とか「他の宝石どもは薄情」みたいな、ageもsageも作中のお話への指摘に終始しているのだけど、ハンジ派とかフォス以外派みたいなのはそういう主張をする側の人間性を叩き始めるんですよね。あ、この今私が行っているともすれば人格否定ともとれる言論は例外ですよ。騒がしい場を鎮めるために「静粛に!」と大声を出さなければいけないとか、人殺しを止めるために正当防衛や死刑制度といった暴力装置が容認されることとかと同じで、有害を止めるために一時的に同種の毒に頼る行為はその最初の一回のみ正当化されるというルールがある。ソースは俺。このことは前どこかのnoteで書きましたよね確か……?ローカルで検索してもどうもヒットしないので不安なんですが、バックナンバー覚えてる方いらっしゃったら教えて欲しい。
で話を戻して、そういう奴等は作中の話の枠外に出て、「フォスがかわいそうとか言ってる人いるけど~」みたいな(これは最もよく見るテンプレ構文)、そういう共感性を抱いている人間そのものを攻撃し始める事が多い。まぁ宝石の国のケースだとそもそもそっち側がマイノリティなので、マイノリティが排他者に対して攻撃的になるのは自然といえば自然なんですけど、なんちゅうか作品で語れよと思うよね。
Tweetifyするとこんな具合でしょうか。
フォスに対する共感意見って「フォスがかわいそう」とか「他の宝石たちは薄情」みたいな、肯定にしても否定にしても作中描写に関しての指摘が主だと思うのだけど、フォスに共感できない人々は作中描写がどうこうじゃなくてフォスが好きな人達やその感情そのものを攻撃してくることが多い気がしてなんかモニョる。。
あ~いいっすね~~!!あさましいですねぇ~。「モニョる」なんて婉曲な表現を使って自分だけは清くあろうとしている感じ……いやあ~いいです いいです…!そのヌルヌルした感じ……!本来……SNSというものは すべからく……そうでなければ…ダメざんす……!
ちょっとこれで一発火種投げて地獄エックスを沸かせますわ。こりゃ~よく燃えるで。愉快愉快。
私はね、もう言葉というものにうんざりしているんです。物は言いようとはよく言ったもので、よく聞けば同じ内容でもどう包装するかで民衆の反応がまるで変わってしまう。これもう言葉のルッキズムだろ。なぜなら、言語化能力には生来的個人差があるからです。すべての人間の言語化能力が一定であれば、言葉が持つニュアンスを見極めてトルクを強めたり弱めたりという、いわゆる「思いやり」の体現という見方もできるでしょうけど、一定でないのなら万事をそういったものにattributeすることはできない。言語化能力が足りないために勝手に思いやり不足と受け取られるみたいな事故が起きる訳です。生来的要因によって意図しない差別を受けるのならルッキズムとどう違おう?これは「声」とかにも言えると思いますけどね。肌の色の差別が人権侵害なら容姿の美醜や声色の快不快で受けるそれも人権侵害だと思うんですが。「キモいものはキモい!差別したいものはしたい!」に勝てないっていうのはとりあえず置いておいて。それでいったら人種差別だってそうだし。
https://pi.ai/s/roVTn3EZ7Lnxk1nMb1p5P
きれいな言葉を礼讃するのは綺麗なモデルアクターを礼讃するのとあんまり変わらない。そう思うと一気に虚無(シャバ)くなってしまった。
Comments ( 0 )
No comments yet.