ミュートされた善意:マイクロアフェクション
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(。-ω-)zzz… (。゚ω゚) ハッ!という天啓。我々が見逃しているのは悪意ではなく善意ではないか。
「本音」という言葉の恣意的な後ろ暗さについて私は幾度も論じてきた。つまり、本音というと何やらネガティブで攻撃的な意見でなければならないという先入観があるのだ。べつに本音のほうが建前より優しかろうと問題はないはずなのに。
ここからわかることは、我々はミュートされた悪意には敏感だが、ミュートされた善意という存在を考慮していないということだ。しかし善意だってミュートされるのだ。
たとえば母親に「いつもありがとう」というのと「早く飯作れ」というの、どっちが簡単だろうか? これは極端な例だが、普段普通に接してる人に「いつもありがとう」と改まっていうのは相当気恥ずかしいものがあるだろう、たとえそれが本音だとしても。
善意だって隠れうる。場合によっては悪意以上に露出させるのが難しい。いっそ建前の善意より本音の善意のほうが表に出にくいのだ。ソーシャルメディア・プリズム理論によれば露出する意見とは極化したものになるということだが、ここにはポジティブ・ネガティブにおける過激さの非対称性がある。というより、ほとんどの意見とはポジ・ネガの二元論では語り得ず、しかし過激・穏便の二元論はほぼ常に適用できるのだ。たとえば「左翼・右翼」にポジ・ネガは当てはめにくいが、過激性は常に推し量れる。そしてこのプリズム世界において、ネガティブは過激性を加速させやすく、ポジティブはミュートになりやすい。
ゆえに提唱する、インビジブルラブの類似系、マイクロアフェクション。
我々は「無反応」を「無視」とし、隠れた悪意(マイクロアグレッション)と定義した。これがすべての間違いだった。確かに人にはネガティビティ・バイアスが存在するが、それはバイアスであって真実ではない。「無反応」が悪意というのはおそらく多くの場合思い込みだ。ソーシャルメディアのrunning jokeとして、国内外どんな文化圏にも「どう返していいのかわからないからいいねで済ませる」みたいなミームがある。しかしいいねひとつ押すのさえハードルがある人間もいるだろう。だからといって嫌っていることにはならず、それは発現されないミュートな善意でしかない。
ヒュームは人間には生まれつき他者の幸福を願う自然な感情(benevolence)が備わっているとした。 この共感の原理こそが、道徳の基礎をなしている。我々がまず前提とすべきは、この「隠された善意」の存在であり、「無反応」や「沈黙」の背後に潜む、言葉にならない肯定的な感情である。
マイクロアグレッションという概念は、無意識の差別や偏見を可視化する上で重要な役割を果たした。しかし、そのレンズを通して世界を見すぎた結果、我々はあらゆるニュートラルな、あるいは読み取れない反応の中に、悪意の影を探すようになってしまった。誰かが自分の投稿に「いいね」を押さなかった。それは自分への批判だろうか?会議で自分の意見に誰も反応しなかった。それは反対の意思表示だろうか?こうして、存在しないかもしれない悪意に我々は疲弊していく。
しかし、マイクロアフェクションの視点に立てば、世界はまったく違って見える。「いいね」を押さなかったのは、ただ単に投稿を見逃しただけかもしれない。あるいは、あまりに良い内容で、どう言葉を添えればいいか分からず、そっと心にしまっただけかもしれない。会議の沈黙は、反対ではなく、むしろ深い納得や、自分の意見をまとめるための熟考の時間だったのかもしれないのだ。
悪意は、しばしば自己顕示欲や攻撃性と結びつき、エネルギーを持って表出する。だが善意は、内気で、控えめだ。感謝や尊敬、愛情といった感情は、あまりに純粋で個人的なものであるがゆえに、かえって軽々しく口に出せないことがある。それはまるで、大切にしている宝物を、汚さぬようにそっと胸にしまい込む行為に似ている。
我々は今、コミュニケーションの解像度を上げることを求められている。それは、言葉の裏に隠された悪意を暴くことだけではない。むしろ、言葉にならなかった善意を想像し、受け取ることこそが必要なのだ。「無反応」を「無視」と断じる前に、そこに存在するかもしれない「ミュートされた善意」—マイクロアフェクション—の可能性を信じてみる。それだけで、我々の心は少しだけ軽くなり、世界はもう少しだけ、温かい場所になるはずだ。
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