ゆめにみていた
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御存知の通りド田舎の山奥に住んでいるのですが、クマが怖すぎて震え上がっています。
なんか今年ありえないくらい熊害が多くないか? 曰く通常の3倍以上の被害率らしいです。怖すぎる。わい食われるんか?(;,_ゝ;)
私がおいしいといいのだけど。とか言ってられんわ。腹食い破らんで!(トラウマ)
怖すぎて熊鈴を買ったけどこれこそ意味ないですよーって感じ。しかもチャリ通やからマジで無防備だし。山奥を、毎日、早朝と夕方にチャリで走っているの、自殺志願者すぎる。あーあ。わいが死んだら後は頼むな、みんな。オレの本名は・・・ 約束したよな・・・・・ 誰にも言うなよ。じゃあな・・・・・・・ 元気でな・・・・・・。
UBW1期全話見た。
12話のラスト数分がアツすぎて鳥肌立ちました。ハッ……アッ!アーツィ!アーツ!アーツェ!アツゥイ! ヒュゥー、アッツ!アツウィー!、アツーウィ!アツー、アツーェ! すいませへぇぇ~ん!アッツ、アツェ!アツェ!アッー、熱いっす!熱いっす!アッツ! 熱いっす!熱いっす!アツェ!アツイ!アツイ!…アツイ!アツイ!アツイ!アー・・・アツイ!
その曲はずるいて。音楽の成せる力の大きさを思い知った。ていうか、じゃあこれどう考えてもdeen版から見るのが正解やん。ufo版から観てこのニクい演出を逃すのは痛すぎる。人生の59%を損します。

Slay the Spire発見伝たのしすぎワロタ。アドバイスも的確やし。
そもそも人権の尊重に、『線引き』などあってはならないはずです。『こっちの人権は大切だが、あっちの人権はどうでもいい』といった『線引き』をいったん許容してしまった社会は、ほぼ必然的に、既得権益をより持つ側に都合が良いよう、その『線』をなんだかんだと理由をつけては引き直し続け、いずれ遠からず、あなたや私の人権をも、軽視し、踏みにじり始めるでしょう。そして、そうなってからではもう、元に戻すことは難しい。だからこそ、『今この時点』で我々が声を上げ、力を合わせ、危険な兆候に歯止めをかけるよう努めることが、過去の過ちに照らしても、絶対に必要なのです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8a807c4b63f7b444688641962d3fc0d2c5de9c81
「そもそも人権の尊重に~」から「~なんだかんだと理由をつけては引き直し続け」までは完全同意。それ以降がかなり気に食いません。言ってることが「人を殺してはいけません、あなたが殺されないために」と同じレベルじゃないか。a.k.a.便所の紙のような道徳、秋田ひろむ曰く。
「自分の人権を踏みにじり始めるおそれがあるので」という理由で反人権的な運動を否定するのって倫理じゃないよなーと思う。罪人でさえそれくらいのことはしている。(聖書)
どう捉えたって「あっちの人権」と「あなたや私の人権」に線引をしている言動にしか見えない。未来永劫あなたや私や近隣の人権には関係なかろうが、未来永劫遠い国の知らん人間のみが踏みにじり始めると確約されていようが、それでも止めるのが倫理なんじゃないんですか。becauseを内包した人権宣言ほどばかばかしいものはない。
ていうかほぼ二ーメラーの詩の転回形ですけど。もうこんなんNIMBYですやん。結局みんな自分のことばっかりかい。「自分に影響が及ぶから」って理由で行動し続けると、絶対に(自分に影響が)及ばないことが確約されている害悪を見過ごす癖がつくんじゃないでしょうかね。まあ、それは既に社会についている癖か。そうだよ、忍者……だから極道は社会をブッ殺すんだぜ……。
最大多数を救う決断が社会が敷いた正解だというのが原則です。しかし私は最近そこに不穏な影を感じている。きっかけはいつか引用したこの言葉です:
嫌いな音楽があってこそ、好きな音楽というものに説得力が生まれると思うんです。「あなたの曲が好きです。あなたの曲以外はぜんぶ嫌いです」と言われたほうが嬉しいと思います。
https://note.com/cool_yarrow4331/n/n82d2a761a265
例えばこんな状況を考える。あなたと、あなたのこの世で一番嫌いな人間が、ともに崖の淵で落下しかけている。崖の上にはあなたの友人がいる。残された時間では彼はどちらか一人しか救えない。
この時、あなたが最も不幸を感じる彼の決断とはなんだろうか。彼の決断は3パターンある:
A: あなたを助ける。
B: あなたがこの世で一番嫌いな人間を助ける。
C: どちらも助けない。
もう一度聞こう。あなたが最も不幸を感じる決断とは、なんだろうか。
私が何を言いたいのか分かるでしょうか……。社会においてトリアージは「救える人数を最大化するためのやむを得ない措置」として例外的に正当化されていますね。では、その「やむを得ない措置」によって正当化された犠牲者は何を思うでしょう。
多くを助けるためには仕方がなかった、と社会は言うでしょう。しかしこの「やむを得ない措置」は、いっそ誰も助けないよりも破堤の犠牲になった彼にとっては有害なのだ。
救える人数を最大化することは、対象によっては誰も助けないよりも有害になる。社会は常にこの有害を積極的に拡大しているのに、あまりにそれに自覚的でない。だから私は社会が嫌いなのだと思う。
孤独を煽り繋がりあう気分はどうだ
愛は見つかったか
掠れる声を踏みにじりながら
生きていることを忘れるな
米津玄師『あなたは醜い』
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