せっちゃん
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わかりましたトニャーさん。今すぐ犬飼ってくるわ。
アドルフの話しよー笑
時系列順に追っていくと彼という人間になんらの不思議もない。何がどうしてああなったかよくわかります。知るべき規則はひとつ、「無意識が本体で、意識はその解説ないしは釈明に近いものとしてあとからやってくる(谷川俊太郎)」。ポンメルンの病院で彼はすべての答えを得た。それは誤りだったが、誤りと知る術はなかったし、アドルフという人間にそれ以外の答えは残されていなかった。おそらく100回繰り返しても。
そのうえで最近よく思うパラドクスというか、折り合いのつかない現象がある。「良い人殺しのパラドクス」とでも名付けましょうか。
さて諸君ここに以下のような人物像を想像してみよう:
人物A: 会社員。職場では横柄な態度で嫌われている。片付けはしないし、パワハラ気質だし、部下をいびるし無駄に大声を出す。趣味はパチンコと風俗。
人物B: 児童保護施設の施設長。誰に対しても優しく接して子どもたちから慕われている。給与の殆どを恵まれない子どもたちに寄付している。
どちらが「良い人」に見えるだろうか。逆張り野郎でない限りは迷わずBと答えるだろう。
ではここにひとつの要素を追加してみる。人物Aは人を殺したことがない。いっぽう人物Bは殺人に快楽を覚える性分で、秘密裏に何人も殺している。吉良吉影的なシリアルキラーです。
別にこの前提が追加されたところで、さきほど提示した前提はなにひとつ否定されない。人物Bは変わらず児童保護施設の施設長だし、慕われているのは事実だし、寄付をしているのも事実だ。人物Aがパワハラ野郎なのも事実だ。それでも「どちらが良い人か?」の評価が突然反転せしめるように見える。いや、ここはいっそ「反転しなければならない」と言い切ってしまおう。「しなければならない」は常に特定の立場からの主張で、この場合は、社会の主張ということになる。
しかし諸君、正直に話そう。社会ではなくヒトとしての我々は、はたして本当に人物Bを突如として人物Aと比類なき極悪人にせしめることが出来るだろうか?
少なくともわたしには出来ない。しかしこの思考実験においてもっとも重要なのはBの処遇のshouldではない。事実として、人はBを許すということだ。いや許す、という言い方は過誤かもしれない……「自分より高く見る」と言い換えようか。
つまり、Aから見たBはAより善く、Bから見たAはBより善いのです。
B: どれだけ罪滅ぼしのような行為を重ねても、「人を殺さずにはいられない」という己の性はそのすべてを否定する。人を殺さない人間の方が善いに決まっている。おれは死ぬべき害悪だ。
A: Bは人殺しだが、少なくとも人に慕われてきた。おれは誰彼からも疎まれ、生きがいを見いだせるような趣味も使命感もなく、のうのうと生きているだけのゴミだ。
この状態!この状態こそが人間性の真髄なのです。人の心がこういったメカニズムを持っているという前提の上で考えると、わたしはやはり自分よりアドルフの方がよほど義理人情に厚い、善い人間に思うわけです。
わたしは姪が死んでも泣かないだろうし、母を無心で看病したりしないだろうし、友のためにワーグナーのチケットをプレゼントしたりもしないだろう。200マルクで犬を売ったかも知れない。
美大に合格していれば、第一次世界大戦が起きなければ、ポンメルンの病院で天啓を得なければ、あらゆる転換点において彼は別の人生を歩めたでしょう。しかし別の人間を生きるわけではない。どの道においてもアドルフはアドルフのままいたはずだ。つまり自惚れ屋で妄執的で義理人情に厚い男。だがわたしは?どの転換点を選んでも、どんなふうに生きても、わたしもまた別の人間を歩む事はできない。であればこの身が義理人情に厚い人間になれることはない。何度妹の心臓が止まっても、何度でも動乱のない朝を迎えただろう。そういうところなんですよ……焦がれるのは。
べつにアドルフが人類史上稀に見るほど義理堅い人間であるわけではまったくない。平均的か、ちょっと過保護くらいの人間だろう。ではなぜ?彼という人間の特異性は、後年のグストルへの手紙を見る限りは、「別の人間を歩む事はできない」ということを証明してくれるからです。グストルへの手紙なんざ個人的書簡だし、グストルは当時しがない役人でなんの利用価値もないのだから、政治のことしか頭にないならあんなに親愛なるメッセージを書く必要もないし、1944年にグストル母80歳の記念品を送る必要もないし、二人きりのヴァーグナー音楽祭で「戦争なんてうんざりだ」と吐露する必要もない。それでもアドルフはそうした。わたしはただ、そんな人間になりたいだけ……。他の何を差し置いても。

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