さよならメリトクラシー
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これになってきた。
コンデンサも認知偏向も一度も落ちない中わりと余裕を持って勝ったぞ 勝因:反響化
反響化の影響はターン最初のカードにしか出ないから検索で持ってきたカードを反響化の対象にすることはできないが、均衡があれば検索で「均衡」「目当てのパワーカード(デフラグなど)」の2枚を持ってきて均衡→手札保留→次ターンのはじめにそのパワーカードを使用して×2、という手順を踏んで疑似認知偏向ができる

これもうお坊さんだろ。早くこれになりたい。
ロード・エルメロイII世の事件簿、内容はなんとも言えんけど映像と劇伴が良すぎて大勝利してる。インストOPかっこよすぎだろ。曲も映像もでっけえなお前(捨てるとこなし)
一番好きなのは最後の少年ウェイバーが映るシーンなんだけど、何がすごいって視線誘導よね。初見で「ん……?あれ!?今のウェイバーじゃね!?」って気付けるくらいの尺は設けてるんだけど、絶対に顔がはっきり視えないような視線誘導をされている。全力で。映ってるのよ?描かれてはいるのよ?割とちゃんと。でも映像の動かし方で「あれ!?今のウェイバーじゃね!?」どまりの魅せ方をされている。これがも~~ニクい。素晴らしい。あっぱれです。

早くこれになりたい
最近は色んな人に失望したりアン失望したりしています。(「失望」の対義語、なくね?よく考えたら。「期待」ではなくて、「見直した!」という感情をあらわす名詞。英語にもない気がするが……。大問題じゃないかこれ。)
え?なんの話だっけ?ああそう……素晴らしいと思っていた人が実はフェイカーだったり、フェイカーだと思ってた人が実は素晴らしかったりするということが頻発している。つくづく当てにならない。他人も自分も。もう、やめましょう……。メリトクラシーを信仰するのは。人はどこまでいっても他人の一部しか理解出来ず、いずれ必ず失望もしくはアン失望するのです。誰かを何者かに固定するのは将来的に認知的不協和を生むだけだ。
自分の基準で判断しないようにしてますね。その人にはその人の必然性があると思うから。その人の意味とかじゃなくてそういう人が存在している存在自体を受け入れたいっていうふうに思って人と付き合ってますね。(谷川俊太郎)
そういうことなのよ……(https://www.youtube.com/watch?v=HgRZuL1EGkA&t=2309s)
「どうせいつか必ず偶像は壊れる」、という事実より、「だからどうする?」にどう回答するかが本質なのです。「だから誰も信じない」なら暗黒森林編へ、「だから誰もを無条件に愛す」なら谷川俊太郎編へ。学ぶべきは人の本性を見極める観察眼ではなく、価値観のコリジョンを度外視して愛を育む器の大きさなのでしょう。
「この人は◯◯だから好き」「この人は◯◯だから嫌い」みたいな「何故なら」はすべてpost-hoc rationalizationだ。辻褄合わせだ。意味をなさない。
WhydunnitではなくHowdunnit——それが見るべき本質だ(逆エルメロイ)。
オム投獄編を見届けたことで、愛の本質を肌で感じ取れたような気がする。
本当に、オムがただ生きているというだけで嬉しかったんです。途中でどれだけ間違えても、どんなに道を踏み外しても、彼がただそこにいて、必死に生きてくれていることが、わたしにはとても尊いことに思えたのです。
オムが苦しみ悲しんでいる時はわたしも同じように苦しみ泣いた。オムが喜びを見つけられた時はわたしも自分ごとのように嬉しかった。
「ただそこにいる」ことへの、言葉では言い尽くせないほどの感謝。
それが愛。
オレは…佐原を救えない……佐原もオレを救えない……
絶望的に離れ離れだ……!
なのに……なんだ……?この温もりは……!
胸から湧いてくる……この温かさ……感謝の気持ちは……
佐原が……佐原がただ……そこに在るだけで……救われる……!
奴が目の前にいないその寒々しさを考えたら……
今……見える存在はまさに救い……!希望そのもの……!
『賭博黙示録カイジ』

藍の貴重な現実世界フォトグラフ。
何度も何度も墓まで行って、何度も何度もその手合わしてきました。

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