輪舞
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今回の講義は作り手と消費者とのギャップについてです。
倉橋ヨエコが解体ピアノ収録の「輪舞曲」を完成させたとき、「最高の作品を生むことができた」として「アーティスト廃業」を宣言した、というのはもはや声優の中尾衣里さんが5月15日生まれだということくらい有名な話だが、しかし僕はそれを知った当時(2009年くらい?)はどう考えても「輪舞曲」が彼女の最高傑作とは思えなかった。むしろ「損と嘘」とか「流星」みたいなノリのいい曲の方がずっと好きだった。歳を取るにつれて彼女の感性がわかってきたが、しかしともあれ当時の僕にとっては彼女の廃業は「不合理」であった。正直、今でも「輪舞曲」が最高傑作だと思っている人のほうが少ないんじゃないだろうか。さてここからが重要なことなんですが、誰がなんと言おうが少なくとも彼女自身の中では「輪舞曲」は8年続いたアーティスト活動を一瞬にして廃業させるに足りうるほどの傑作であり、それは同時に倉橋ヨエコというアーティストの持つ感性の最極地にこの曲が位置するということでもあるわけです。ここで「消費者にとっての最高」と「作り手にとっての最高」のギャップが生まれている。これは何も彼女に限った話ではなくありとあらゆるアーティストがそうだと思われる。例えば古川本舗は自らの最高傑作を「スカート」と言っていた(ツイキャスで。今は多分聞けない)。スカート!確かに悪い曲ではないが、とても最高傑作の王冠を与えるにはふさわしくない。米津玄師ならサンタマリア、といったふうに「本人にとっては特別な曲」でも聴衆側はシーンとしているということは往々にしてある。特にサンタマリアなんか当時は本人の思い入れと裏腹にドスベリしたって言ってもいいくらいウケてなかった。自身を引き合いに出しても、作品の評価は自分自身の中の評価とほぼ全部ひっくり返っているくらいにはなっている。主観極まれりで話すなら、i2とo3でi2を取る奴らは全員感性が死んでいる。で、これらがなんなんだというと、例えば◯◯のような曲を作りたいと思った時、本当にその芯を取り込みたいと思うのならそのアーティストの”主観”においての最高傑作=自分の感性においての最高傑作になるように調整しなければならないという話。倉橋ヨエコの根本には輪舞曲があり、その根から友達のうたやらのポップスが生えているという構図を見失ってはならない。根が違えば生まれるのは似て非なるものであり、根を共有していれば生まれるのは”似ず非ではないもの”となる。芸術活動を何年というスパンで見るならば、本当にある存在を崇めていてその感性を取り込みたいと思うなら大衆受けとは関係なく根を掴まなければならない。(もちろん大衆受けと根が一致してるならそれでいいんですけど。ただの逆張りにはならないこと 基本的には大衆受けするアップテンポの曲よりもローテンポのバラードとかの方が本人の色が出やすいと思っているが)このブログ層にもっとわかりやすくいえば、彼の模倣をしたければむしろノイズミュージックやアンビエントに焦点を当てなければ意味がないということ。根本(root)にある部分を知って、はじめて同じ枝を生やせるのだから。まぁ、倉橋ヨエコは実は廃業してないんですけど……この話はエッダや墓と同じ闇になるからやめよう。それと実はこの記事は終始詭弁である。なぜなら俺は「輪舞曲」が解体ピアノの作品の中で最後に作られたというのは知っているが、倉橋ヨエコがブログやインタビューで主張したのは「解体ピアノで最高のものができたから廃業する」であり輪舞曲に対しての言及は(いくつかのSNSなどの証言はあるものの本人の口からは)確認できてないから。
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